【連載】大阪の橋

    第30回●淀川大橋(6)
    淀川大橋界隈みてある記
    (1999年7月26・30日撮影)

    壽榮松正信
    (74期)


      【淀川大橋近辺】
      QuickTimeVRで見る〜淀川大橋近辺大パノラマ

      →右の写真をクリック
      (164KB)


      【淀川大橋北詰】
      大正15年に建設された淀川大橋は、かなり老巧化しています。
      十三大橋よりもかなり水面に近い橋ですね。
      このため、台風や地震の時に高潮の影響があります。
      地元の方の話では、第2室戸台風の時には、整備されていなかった このあたりの土が、どんどん削られていったそうです。

      【北詰から見る〜淀川建築博物館】
      北野の前から見る『淀川建築博物館』も、場所を変えると見え方が違いますね。
      交通量も大変なものです。ひっきりなしに四方から車が流れ込んできます。


      【橋の歩道には…】
      歩道を歩いてみると、橋の歩道には100m毎に標識があります。
      一番端っこは700mですが、2番目からは矢印で双方向の距離が書いてあります。
      先代の『西成大橋』と現代の『淀川大橋』もきっちりと宣伝してあります。

      【不思議な構造物:Q】
      はて、これはなんでしょう???
      淀川大橋に、2つあります。
      北側には『朝日』、南側には『夕日』があります。

      8月3日は『平成淀川花火大会』が開かれ、『夕日』の辺りもビューポイントですので、注意書きが出ていました。


      【不思議な構造物:A】
      不思議な構造物の正体は…?

      【鼻川神社】
      明治の20年代まで、この神社は今の淀川の中にあったのです。
      そのころあった中津川は、このあたり蛇行していました。
      その形が『鼻』に似ていたので、『鼻川神社』と名付けられたそうです。
      今は、淀川大橋の北詰東側にあります。
      ここには、次の碑が置かれています。

      【鼻川神社の碑】
      『西成大橋』の銘のごとく、大正末期まで利用されていた橋の標識です。
      木の橋の大きさも、長さが「404間3分」、幅が「3間」と、書いてあります。
      メートル法では、730メートルと6メートルくらいですかね。

      ※写真は、前々回の第28回●淀川大橋(4)で紹介されています。


      【海老江八坂神社】
      鼻川神社の丁度対岸に、海老江(えびえ地名)があります。
      海老江の地に、八坂神社があります。

      海老江の鎮守である。
      古くこの一帯は海中に浮かんで海老洲(えびす)と呼ばれた砂洲で、開拓されて村となりその折創建されたと思われるので、相当古い神社である。
      祭神は素蓋鳴命、旧名牛頭天王社、境内の燈寵に大治(224頃)、大治(138頃)の年号が見え、社伝に永徳三年(1383)再建などとある。
      元亀元年(1570)織田信長が野田城にいた三好一党を攻撃したとき、荒木村重に命じて当社に陣刀を奉納して戦勝を祈願、現在も社宝として刀が保存されている。
      農耕、生産守護、疫病災厄守護神として広く信仰され、明治以後八坂神社の名に改まった。

      ということで、かなり古い神社なのです。
      地震の影響はここにもあり、社殿が青いビニールシートで囲われていました。


      【海老江八坂神社にある『西成大橋』の親柱】
      対岸の鼻川神社にもあるこの親柱、淀川大橋の下流側にあった『西成大橋』にあったものです。

      【潮位計】
      淀川大橋は、かなり低く、高潮があれば水が溢れます。
      その潮位は、常に観測されていて、その結果は無線で報告されます。

      【建設省淀川工事事務所福島出張所】
      潮位を管理する事務所が、淀川大橋のたもとにありました。
      大地震の時は、これから下流の堤防がかなり傷み、決壊のキケンもありました。
      その後、着々と改修作業が行われています。

      Last Update: Aug.23,1999