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2010年のバックナンバー

第55話 世間は狭し楽し

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▲夏は飲み食いしながらここで何時間でも世間話・・・。右から、義妹、夫、義父。

今回より、新シリーズが始まります。一住民から見たポラントリュイという町、アジョワという地方、ジュラという州、そしてスイスという国を、年々薄くなりつつある?「日本女性というフィルター」を通してあらゆる角度から語りたいと思います。四方山話へのお付き合い、どうぞよろしくお願いいたします。

③	私がロマンさんに日本語を教えているティールーム。和風に言うと「喫茶店」だろうか。パン屋・ケーキ屋も兼ねている。特に土曜の朝は、席を見つけるのが困難なほど混む。

▲私がロマンさんに日本語を教えているティールーム。和風に言うと「喫茶店」だろうか。パン屋・ケーキ屋も兼ねている。特に土曜の朝は、席を見つけるのが困難なほど混む。

時は15年以上遡る。「Salut ! ハイジの国から」で言えば、第一話から第六話ぐらいだろうか。フランス語がまだ不自由だった頃、そして・・・知り合いがほとんどいなかった頃、人の集まりが大の苦手だった。それがたとえ自分の夫の家族や友達だったとしても。私自身について直接質問されたり、日本に興味を示してくれるならまだ会話が成り立ちやすいし、入りやすい。しかし、そんな甘い時間は長くは続かず、皆は安心して話せる「世間話」へと移っていく。例えば、夫の母がこんな話題を提供したとする。

「ねえ、〇〇って知ってる? 私の妹の義母の兄なんだけど・・・」

日本語であったとしても、「うん?」と考え込み、頭の中で一生懸命家系図を描かなければ、瞬時に関係が分からないであろう。他の人達は通じ合っているらしく、「へえ、そう、そんなことがあったんだあ~!」と話が弾みまくる。

正直に告白すると、私は最初、このような「世間話」が嫌で嫌でたまらなかった。〇〇さんのことはおろか、夫の叔母の顔もおぼろげなのである。皆が楽しそうに笑う中、私は一人取り残され、薄笑いを浮かべるしかなかった。

スイス到着後1年間ほど、まだフランス語での会話についていけない頃は、夫の英語による通訳に頼るしかなかった。しかもそれは話が弾めば弾むほど頻繁ではなくなる。やっと訳してくれた頃には別の話題が盛り上がろうとしており、今更、前の話を出せる雰囲気ではない。たとえ先の話がどんなに面白かったとしても、ガスがすっかり抜けた炭酸飲料を飲んでいるような気分を味わうこと度々であった。コンプレックスも入り混じり、「こんな程度の低い話、どうだっていいんだ!」と、ひねくれて考えていたこともあった。

そんなこんなで・・・苦節、数年。

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▲お気に入り、カフェ・ビストロの「シェ・ステフ」。経営者がステファンという名前である。以前、私はスイスロマンドTVに出演したが、その時のインタビューロケはここの三階(ホテル)で行われた。冬の朝早いこともあって閑散と見えるが、夏は道路まで張り出して椅子とテーブルを並べ、カフェテラスが大繁盛である。

フランス語も人並に話せるようになり、友人知人も日に日に増えた。二人の子を出産、育児。ブルー期間を克服してからぼちぼち仕事を始め、地域に密着した文化活動に頭も手足も突っ込んでいる。スイス人を前にして、「自分はあくまでも日本人だが、同時にポラントリュイ人、アジョワ人、ジュラ人でもある」と豪語できるまでになった。環境にどっぷり浸かると人間とは恐ろしいもので、あれだけ嫌だった「世間話」が逆に面白くてたまらないばかりか、自分から率先してやるようになっているのである。

「私の友達のお子さんの担任の先生が、気分屋でねえ・・・」

などと。

州全体でも人口がたった6万9千人あまり。知り合いの誰かさんと別の誰かさんが何かしら繋がっている。友人知人が多くなるということは、それ以外の人とも間接的に繋がっていると感じ、安心するのがジュラ州の特徴ではないだろうか。他の州の人と話していても、そこに行き着く。大阪という、一応大都会から来た私には、こうした田舎特有の世間の狭さが窮屈に感じたこともあったが、今ではちょうどいい湯加減の温泉に身内だけで浸かっているような、ほっとする環境になってしまった。驚くことに長年暮らしていると、この「世間」は、ジュラという地方だけでなく、スイスという国、ひいては世界にまで広がっていくのである。

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▲初対面のヴァレー州在住女性の学友で、現在スイスロマンド国営TVの番組ディレクター、ロマン・ゲラさん。休暇と仕事で年に何度も日本に行くという、大の日本びいき。彼の計らいでTV局を案内してもらった時の写真である。

例えば、こんな話がある。

仕事を通じて出会ったヴァレー州在住女性との何気ない会話。彼女とは初対面、私が切り出した世間話である。

私「ヴァレー州出身の綺麗な女性アナウンサーがいますよね。あの人の恋人はジュラの出身ですよ。私の日本語レッスンの生徒でもあってねえ・・・△△って名前。この人もTV関係者で・・・」

ヴァレー女性「ああ、△△ね。同じカレッジで学んでたわ。彼、元気?」

もう一つ、凄い出会い。沖縄で、ラ・ショー・ド・フォンというヌーシャテル州の町出身者に共通の友人の紹介で会った時。

私「隣村に住んでいる友達(日本人)のご主人がラ・ショー・ド・フォン出身でねえ。××っていう名の・・・」

その人「××? ああ、知ってるよ。彼と幼稚園に一緒に通ってたんだ。懐かしいねえ~」

沖縄で、ですよ! 東京じゃなくて、沖縄!

しかもその後、この男性、私がフランス語で自伝を寄稿した文学集に同じく寄稿していた芸術家の友人だったことも分かり、運命の不可思議さに私は頭をひねるばかりであった。

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▲沖縄・万座ビーチにて。右が、沖縄で出会ってびっくりのラ・ショー・ド・フォン市出身の男性。左は、共通の友達、沖縄在住写真家・ダニエル・ロペス氏。彼はポラントリュイ近郊の村出身である。この日、命全開の(笑)二人は那覇市栄町商店街代表として沖縄名物ボートレース「ハーリー」に出場した。

このような偶然を、私は「ジュラ・マジック」と呼んでいる。

土地を遠く離れてもこれなのだから、ジュラ内部、そしてポラントリュイの町中では網の目のように人脈が絡み合っている。「ああ、☆☆と知り合い? 僕もなんだ」共通の友人知人がいると、初対面でも話が弾んでくれるのが嬉しい。日本の某長寿TV番組で「友達の友達は皆、友達だ。世界に広げよう、友達の輪ッ!」と司会者が言っているが、それを地で行っているのがジュラ人ある。特にポラントリュイとこのアジョワ地方は、ジュラの中でもフランスに近く、平地も多いせいか、人がオープンで明るい。時にはびっくりするほど率直であるが、私のような外国人にはかえってやり易い。

「Bonjour !」「Bonjour ! Ça va ?」ペラペラペラペラ・・・。

町ですれ違えば挨拶は伝統的礼儀。いや、立派な文化と言えようか。知り合いで尚且つお互い時間がちょっぴりあれば、立ち話に発展。カフェにでも入ればいいのに、立ったまま延々としゃべっている。通りすがりの人に話の内容が聞こえても平気なのだ。もちろん、狭い旧市街に何軒もあるカフェは朝から大繁盛。それぞれのカフェには常連がいて、店の人と挨拶だけでなく抱擁・キスもするほど親しいということが分かる。ちなみにスイスの挨拶用のキスは、頬に三回。若いイケメン男性とする時は、「スイスに住んで良かった」と心の中でほくそ笑む私である。女性だと同性同士でもするが、男性同士は普通、握手である。

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▲青空市場が立つ木曜の朝に写真撮影したため隠れてしまったが、ここも人気のカフェ・ビストロ、老舗の「ドゥ・クレ」(二本の鍵という意味)である。この店のビールは種類が多く、ビール通を唸らせる。去年、レストラン部分がリニューアルオープンし、従来の「飲み屋」の他に優雅な空間も作り出した。

挨拶も会話も、人間関係を円滑にする。今の日本では知らない人に話しかけられると悲しいかな、身構えてしまいがちだが、ジュラは違う。とりあえず話を聞こう、何か聞かれたら教えてあげよう、困っている人なら助けよう、という本来の人の優しさ・思いやりが自然に備わっているような気がする。最先端技術を取得し、流行に乗り遅れないようにする心がけることもある意味大事だが、物質の有無よりも人間同士心を通い合わせることこそが幸せをもたらす第一条件である、と後世に伝えていきたいものである。

第54話 ポラントリュイだより: スイス・ジュラの年中行事~冬支度編

ホワイトクリスマスだった2008年

8月半ば。湿気王国・大阪から帰ってきて、気温差に震え上がることもあるが、晴天が広がればしめたもの。故郷シックに陥らず、楽しいジュラ生活が再開する。

奇跡の聖母像8月15日は、カトリック州のみが休日、聖母被昇天祭である。この日の朝、ポラントリュイでは、聖職者達と参列者が、普段は聖ピエール教会に安置されている聖母子像をかつぎ、駅の裏手からロレットチャペルまで行進する。

06年の聖母被昇天祭は、とりわけ魅力的であった。というのは、当時の司教・ジャン=マリー・ヌスバウムさんが、バチカンと懇意の仲であったということもあり、ジュラ出身の新旧スイス傭兵が、特別に、祭りに参列したからだ。普段、バチカンに行かない限りは、せいぜいテレビの中で見るぐらいだった傭兵さん達を間近で見て大感激。勿論、ミサ後に話しかけに行くことも忘れなかった!

この後、ジュラの「熱い」夏は、8月末にムーチェ市と1年交代で開かれるブラッデリーという大きな祭りで終幕する。6月頃から各週末、各市町村単位で行われていた中小規模の祭りも、この頃には尽きる。冷たい季節の到来と共に、人々の心は身も心も冬に向かっていく…。

11月1日、やはりカトリック州のみ休日の「諸聖人の大祝日」。この祝日のフランス語訳である「Toussaint」は、「全聖人」というような意味であるが、一般家庭にとっては、聖人というよりは各々の先祖を供養する日になっている。我が家では、夫の父母の家に行き、祖父母の墓参りをすることが多い。

2006年8月15日、聖母被昇天祭のミサこれといった陽気な行事もなく、何となく湿っぽい気分になりそうな11月であるが、ポラントリュイを中心とするアジョワ地方は違う。そう、豚を食べて食べて食べまくる祭り、聖マルタン(サン・マルタン)祭りが近づくからである!
村々では豚の屠殺、そして豚肉食品作りが始まり、その様子がテレビで放映されたりする。サン・マルタンの独特な騒ぎ具合は第47話スイスグルメ話~アジョワ名物編で書いたので、ここでは繰り返さない。ちなみに、この文章は11月末に執筆を始めたが、その2週間前も、豚肉コース料理全7品を平らげながら、踊り歌い狂った筆者である。

豚祭りが終わり、12月に入ると、町全体がイルミネーションで彩られ始め、子供達には一年に一度の楽しみがある。
12月6日。日本では12月24日の夜にやって来るサンタクロースの方が一般的だが、スイスでは、サンタクロースの原型と言われる聖ニコラ(サン・ニコラ)がやって来る日である。
聖ニコラと次女聖ニコラは聖人には珍しく、殉教せずに天寿を全うした。肉屋にさらわれ塩漬けにされていた子供を復活させたり、貧しい娘に持参金を恵んだりした、という ような伝説から、子供の守護聖人、そして彼の死んだ日、すなわち12月6日にプレゼントを持ってくる聖人として親しまれるようになった。
私の娘達も、幼い頃は信じていたものである。ボランティアでサン・ニコラの扮装をして子供達を訪ね歩いてくれる女性(!)にプレゼントを言付けて訪問を お願いしたこともある。また、町のデパートでは、聖ニコラの握手会もある。こういうイベントでは、ピーナッツやみかん、チョコレートという「三点セッ ト」(第50話~クリスマス編その1を参照)をくれたりする。
しかしながら、サン・ニコラに会うことは、子供達の修業の一環でもある。なぜなら、彼は一人ではやって来ず、「鞭打ちじいさん」と呼ばれる全身黒装束の 男を伴っており、良い子でなければ彼が持っている藁の鞭で打たれると言われている。(注・勿論、実際に子供を傷つけたりはしないが)陰気な黒尽くめの男が 藁を片手に傍で立っているのを見つけた途端、小さな子は震え上がり、プレゼントをもらうのも忘れて泣きじゃくるのである。

各市町村ではこぞってコーラスやミサ曲などのコンサートが行われたり、クリスマス市も(ポラントリュイは小さいながら)立つ。こう書き連ねてみると、何だ、冬もそう陰気じゃないどころか、楽しくわくわくするようなことが一杯じゃないかと元気になってくる。

コーラス系のコンサートが多いのも、この季節の特徴

去年はホワイトクリスマスだったが、今年はどうか。スイスにしては異常とも思えるほど暖かな秋が続いた後、冬になってもまだ肌を刺すような日はめったにない。この暖冬が続くのか、それともいきなりドカ雪が降るのか。優秀な天気予報官と神のみぞ知るの

ポラントリュイだより: スイス・ジュラの年中行事~目白押しの祝日編

モンセヴェリエ村祭り
▲ジュラ州モンセヴェリエ村祭り(6月23日)
(ジュラ州旗があちらこちらに翻り、人口僅か500人の村が活気を増す)
世間ではもう秋の気配漂うというのに、執筆上は春から夏にかけての行事について述べることになり、季節違いもいいところである。筆者の遅筆をどうぞご勘弁 下さいませ。

復活祭休暇(スイスの州によって違うが、2週間から3週間の学校休暇)が終わってしまうと子供達は嫌々ながら通学を始める。しかし、カトリック州、とり わけジュラ州の児童や先生方が文句を言うのは贅沢というものである。というのは、これから夏休みまで、どちらかと言えば楽をさせてもらえるからだ。1~2 週間に1回という割合で祝日や連休が待っている。

2009年度のカレンダーから拾ってみよう。5月1日はメーデー。しかし、我が夫が働くベルン州某M市は、この日も仕事である。そうでなければ学生のよ うに三連休となっていた。その20日後、5月21日木曜日からは昇天祭の四連休が始まる。これも、前回の記事「復活祭編」で述べた通り、移動祝日である復 活祭によって決まる。正確には、復活祭から数えて6回目の日曜日の後の木曜日に昇天祭がある。金曜日は公的には祝日ではないが、学校や企業はこの金曜も休 みにするところが多い。復活祭でキリストの復活を祝い、40日後、昇天を祝う。聖書中の、キリストの弟子達による福音書に忠実に祝日が決められているあた り、「スイスの国教はキリスト教」と称する所以である。
スイスジュラ州のカレンダー2009年5月6月
昇天祭の10日後、キリストの弟子達に聖霊が降りてきて宿ったという聖霊降臨祭(ペンテコステ)がある。この日は日曜だが、翌月曜日は休日であるため、 三連休となる。ポラントリュイでは、この日曜日に小学4年生のカトリック児童が初めて聖体拝領をする儀式がある。カトリック教会では聖餐を「聖体の秘跡」 といい、パンとワインがキリストの体と血に変化し、それを信徒が分け合うことがミサの中心的儀式である。ただ、実際我々が口にする聖体は、パンではなく、 円くて薄ベったい煎餅のようなものである。ほんのり甘く、さっぱりと美味しい。

アイスクリームケーキ
▲2007年、次女リサの初聖体拝領を祝って
ケーキはレストランにお願いして作ってもらった
ヴァシュランクリーム入りのアイスクリームケーキである

聖体の祝日
▲聖体の祝日
普段は駐車場となっている広場でミサをしてから旧市街を歩いた。警察の協力で、この時は旧市街の交通が制限される。泉の向こうに白い祭服を着て立っている のが、次女を含めて初聖体拝領を済ませたてほやほやの子達である

我が家では、2007年、次女がこの日に初聖体拝領をした。ミサ後は、予約しておいたレストランで、家族でお祝い。お祝いされる子供は、洗礼代母や代父 や家族から、大きなプレゼントをもらえる。

夏休み前の祝日はこれで終わりか・・・と思いきや、カトリック教会では、復活祭の60日後、つまり今年では6月11日に聖体の祝日(フランス語では Fête-Dieu)がある。ポラントリュイでは、この日の朝10時に野外ミサ(晴天の場合)があり、先日、初聖体拝領を終えた児童が全員参加する。ミサ 後は、聖体を掲げた司祭を先頭に、参列者全員が町を練り歩き、旧市街の中ほどにある「良きサマリア人の泉」前にて再び儀式がある。

バーゼル司教の支配以来、カトリックが根付き、特別信心深くあってもなくても、生活の一部になっているカトリック暦。夏休み前の祝日はこれで終わ り・・・と思いきや、ジュラ州にはまだある。ジュラ全民が誇る、独立記念日6月23日である。

ジュラ州旗
▲ジュラ州の州旗
左のカギ型のものは、司教杖を表す。かつてバーゼル司教に治められていた地域だからである。右側は、7つの地方を表すが、このうち3つの地方(ドレモン、 アジョワ、フランシュ・モンターニュ)しかジュラ州には含まれていない。残りのムーチェ、コーテラリー、ラ・ヌーヴヴィル、ラウフェンは、様々ないきさつ から、最初の三つの地域がベルン州残留、ラウフェンはバーゼルラント州を選んだ。このことから、ラウフェン以外の地域には、現在でも独立分離派が色々な意 味で熱い視線を向け、ジュラ問題を継続させる大きな原因となっている

ジュラ州に足を踏み入れると、各市町村に必ずといって良いほど、「6月23日通り」という名の通りがある。これは、1974年6月23日、ジュラ州設立 を承認する地方投票が行われ、9割近くが投票し、結果として州設立が認められた日だからである。現在のジュラ州が形成されるには、それからまた何度かの地 域別投票・国民投票を経なければならなかったが、1979年1月1日より、晴れて、ジュラ州はベルン州より独立した。
独立を記念し、6月23日はジュラ州のみが祝日。ドレモン近郊のモンセヴェリエ村では、毎年この日に村祭りが開かれ、政治家が演説する。
過去、反ベルン支配を掲げた過激な闘争もあり、現在もくすぶり続けるジュラ独立の経緯については、いつかあらためて書いてみたいと思う。

7月に入れば、6週間の夏期休暇。筆者は家族と共に嬉々として日本に帰り、蒸し暑さもなんのその、日本滞在を満喫する。8月に入ると早速祝日が登場する が、下半期の祝日は上半期ほど多くはない。以降は、次回の話題としたい。

ポラントリュイだより: スイス・ジュラの年中行事~復活祭編

クリスマスパーティの楽しみ:手作りデザート
▲2006年3月4日から5日にかけて降った60年ぶりの大雪で、ポラントリュイはすっかりマヒ状態
雪かきをしなければ車も動かせない。
(ジュラ=大雪という印象らしいが、近年のポラントリュイでは年間を通じてほとんど雪が降っていない)
クリスマスからは、学校、そして多くの会社も休みで、スイスの家族は揃ってスキー休暇に出かけたりする。
12月31日、日本で言う大晦日は、スイス・フランス語圏では聖シルヴェスターと呼ばれる。(ローマ教皇であり聖人に列されたシルヴェスター1世の命 日)この日の夜は、家族や友人達を含め、大勢で集った方が楽しいかも知れない。11時59分を過ぎるとカウントダウンが始まる。零時きっかりには花火を上 げ、「新年おめでとう!」と、皆が抱き合い、キスし合う。私は家族でしか祝ったことがないが、この瞬間だけは、見知らぬ人にもキスして良いそうである?!
日本のような、「正月らしい」風情はスイスにはまったくない。それに、1月3日から店も会社も休暇明け、平常通りに営業を始める。学校だけが、その週末 までかろうじて休みである。

「王様ゲーム」ができるパン
▲「王様ゲーム」ができるパン
(公現祭のころ、スーパーやパン屋で売られている)
別にたいした遊びではない、と思いつつも
自分の取り分を選ぶ時は結構真剣になってしまう
玄関前を雪かきした
▲我が家の前。60cmは積もっていた
生まれて初めて雪かきをし、玄関から
道に出る通路を作った!

カトリック・プロテスタントでは、1月6日は公現祭(Epiphanie)と言い、休日ではないが、生まれたばかりのイエスを東方の三博士が訪問したこ とを記念する。ほとんど祝いらしい祝いはしないが、各家庭では主として買って来た写真のようなパン、またはガレット・ド・ロワ(王様ケーキ)を分けて食べ る。そして、自分の取り分の中に小さな王様人形が入っていた人が冠をかぶり、命令をすることができるという他愛ない遊びがある。

1月、2月はかなり寒く、冴えない天気が続き、春はまだ遠い気分である。謝肉祭(フランス語でCarnaval・カーナヴァル)の仮装パレードやどん ちゃん騒ぎの翌日からは四旬節といい、復活祭まで祈りと断食の46日間だが、現在ではそれを実行する人は一般市民にはほとんどいないと断言できる。
3月、春らしくなってきたかと思いきや、いきなりドカ雪が降ったりするので油断はできない。どんなに暖かくなっても、自動車の冬用タイヤは4月までキー プしていた方が無難である。標高が高い地方では、雪は季節を問わず降ることがある。
暖冬が続いていたスイス、「地球温暖化の影響なのね! 昔はこんなに降ったのに……」と、スイス人の誰もが憂いを口にしていたここ数年だが、今年に限っ て言えば、文字通りの厳寒、ポラントリュイでも何度も雪が降り、毎日零度前後、冬らしい冬とは言え、少しうんざりしていた。そのこともあり、春を待つ行事 でもある復活祭は、今年は特別楽しみにされていた。
復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。クリスマスは毎年同日だが、復活祭 の日によって他のすべてのキリスト教行事の日程が決まる。
イエス誕生を祝うクリスマスと並び、いや、それ以上に、十字架に架けられ処刑されたイエスが三日目にキリストとして復活したことを記念する復活祭は、キ リスト教徒にとって大切な行事である。去年のクリスマスイヴのミサで、司祭が「クリスマスは復活祭の始まり」と言い、「もう復活祭の話かい」と参列者の間 でウケた。真の意味は、復活祭なくしてクリスマスは成り立たない、ということだ。イエスが十字架に架けられ、処刑され、復活しなければ、神の子としてのイ エスの誕生日=クリスマスを祝う意味がない、ということだ。

「イースター・エッグのなる木
▲義母が飾りつけた
「イースター・エッグのなる木」
スイスのお母さんのアイディアの豊富さには驚かされる

多産であるウサギも復活祭のシンボル
▲私の住むアパートの管理人の
奥さんによる飾りつけ
躍動感溢れ、多産であるウサギもまた復活祭のシンボルとなっている

定番のウサギチョコ
▲この時期、どこへ行っても
プレゼントは「ウサギチョコレート」
左が「デカ卵を背負ったウサギ」
右が「耳垂れウサギ」

卵型のイースター・ケーキ
▲友人家族からいただいた
卵型の「イースター・ケーキ」
見た目はこってりだが、メレンゲが多く
ふんわり、あっさりしていて美味しかった

復活祭に関する習慣について少し述べておく。「イースター・エッグ」と英語で言った方が日本人には分かりやすいだろうか。学校や家庭では卵の殻に様々な 色で模様を描いたり、卵(我が家では卵ではなくチョコレート)を庭や家に隠して子供達が探すというゲームもある。卵は、もともとヒナが卵から生まれること をイエスが墓から出て復活したことに結びつけたもの、また、冬が終わり草木に再び生命が甦る喜びを表したものと言われている。
クリスマスギフト用のチョコレートがようやく商店からなくなったと思っていたら、今度は復活祭用チョコレートの登場だ。どのスーパーにも山積みで置いて あり、ウサギ型、卵型(卵にトリュフチョコが植わっているという凝ったものである)など、大きさも包装も様々。どうせあちこちでもらってくるので、我が子 には敢えて買わない。親戚の子供達のために大量に購入し、復活祭当日まで壊れないように保管しておく。

復活祭前の金曜日は、イエスが処刑された日、ということで肉類は食べず、魚を食べるという習慣がある。ミサでは司祭が地に伏し(最初見た時はびっくりし たが)、十字架に架けられたイエスのための嘆きを表現する。復活祭前夜に当たる土曜のミサは非常に長い。私は2006年、この日に洗礼を受けたが、普段の 2倍以上の時間がかかるミサであった。残念ながら、復活祭の日曜ミサに出席したことがないのでどんなものかは書けない。いつも義父母に招かれ、家族で集 まって食事をするからである。チョコレート探しゲームはこの日。
どういう祝い方をするにせよ、春の復活を喜び祝い家族で集まることは、クリスマスに続き、何物にも替えがたい幸せをもたらしてくれるのである。

ポラントリュイだより: スイス・ジュラの年中行事~クリスマス編その2

非常に季節外れの話題で恐縮だが、時の経過に筆者の執筆ペースが追いつかない、ということでご勘弁願いたい。

クリスマスパーティの楽しみ:手作りデザート
▲ティラミス、キャラメル、チョコレートケーキなど、手作りデザートを食べ比べられる
のもクリスマスパーティの楽しみ(そしてまた体重が……)
家族ミサの模様1
▲家族ミサの模様~この年は、5大陸出身の子供達が
それぞれ民族衣装を着てミサを彩った

家族ミサの模様2
▲アジア出身の子供達の引率係として、真冬なのに
《浴衣》を着て参列する筆者。(恥ずかしながら、
着物を一人で着られません…)でも勿 論、「おぉ
《キモノ》は素晴らしい!」と言われましたが(笑)

クリスマスイヴ。日本では町に若いカップルが溢れる日であろうか。スイスでは、この日の夜は、たいてい、家族が集まって食事をする。学校は休暇に入り、 会社は早めに終わり、店も六時前には閉まるところが多い。我が家では数年前から夫の末妹の家に集まり、夕食を食べ、彼女の義母の手作りクリスマスケーキを 食べるという夕べが慣例行事になった。その後、行きたい者は午後10時から深夜に及ぶクリスマス礼拝に行く。
ポラントリュイでは、小さい子がいるから夜遅いクリスマス礼拝はちょっときついわ、という家族のために「家族礼拝」が午後5時から催される。教会内に は、普段の礼拝では考えられないほど多くの人でびっしり埋め尽くされ、椅子をいくら詰めて並べても足りないぐらいである。赤ん坊は泣くし、退屈して歩き回 る幼児もいるが、咎める人もなく、「これぞ本当の家族」という暖かい雰囲気に包まれている。

余計なお世話かも知れないが、ヨーロッパの一人旅は、できればこの時期は避けた方がいい。外も寒いが、心も寒くなるからである。クリスマスマーケットは あるものの、たいていの店は閉まり、また、地元民は家族で寄り集まっているため、異邦人としての孤独を嫌と言うほど味わうことになる。また、たまたま空い ているレストランがあって、「クリスマスメニュー」を食べたいと思っても、店内はやはり家族単位でお祝いをしているテーブルがほとんどで、一人では入りに くいことこの上ないと想像する。日本ではカップルが待ち繰り出してはしゃぐクリスマスは、欧米では「家族のための行事」なのである。ここでも、「ああ、こ こはキリスト教国なんだ」と気づかされる。

Crèche de Noël
▲クリスマスツリーの下には、プレゼントと共に、
馬小屋でのイエスの誕生と祝いをモチーフにした
人形(フランス語でCrèche de Noël)が置かれる。
写真はペルーの工房で作られた陶器製のもの

等身大の人形
▲木彫りで等身大のマリア、ジョゼフ、そして
飼い葉桶に入ったイエスの人形。ヴァレー州
シオン市の街中で見かけた小屋の中で

ビュッシュ・ド・ノエル
▲ビュッシュ・ド・ノエル
クリスマスの季節デザートで、丸太の形を
したケーキ。普通は(木肌の色を模した)
チョコレートやモカが主流だが、これは
生クリーム版。夫の妹の義母の手作り。

そんな性質を持つクリスマスだからこそ、たとえ住人であっても身寄りのない者、独身者は淋しさが身にしみる時期である。ポラントリュイでは、そんな人々 のために、「みんなのクリスマス」というパーティが、赤十字主催で開かれる。市、キリスト教団体、ロータリークラブ、銀行なども協賛しているため、 COOP(コープ=スイスでMigrosと並んで庶民の味方的存在のスーパーマーケット)レストランを借り切っての、盛大なパーティを催すことができるの である。
プログラムによると、バンド演奏を聴きながら食前酒を飲み、無料で食事が振舞われるそうだ。サンタクロースがやってきて参加者にプレゼントをくれる。参 加資格は自由。一人では勿論、家族で参加してもいい。連休明けの新聞に載せられるこのパーティの写真を見ると、お年寄り、そして外国人の家族が映っている ことが多い。孤独にひっそり過ごすより、ここに来れば暖かい場所で大勢の人と分かち合いながら温かい料理が食べられる。寒く厳しい冬の夜の希望の灯が、こ こにある。

一夜明けて、クリスマス。目が覚めると「メリークリスマス!」(フランス語でJoyeux Noël)と、家族でキスし合う。さほど信仰熱心でなくてもキリスト教徒にとってはイエスの誕生を祝う大切な日である。そしてプレゼント交換。子供達は、 既に数日前からクリスマスツリーの下に置かれているプレゼントを開けずに我慢しているが、やっと包みを解くことができる嬉しい日でもある。

クリスマスの日の過ごし方は家族様々であろうが、我が家は、夫の母方の親戚が催すパーティに行く。村々を見下ろす丘の上に建つボーイスカウトハウス (キッチン付)で、一年に一度、母方が一堂に会する大切な一日である。遠くに住む親戚とは、ほぼこの日しか会えない。夫の母は七人兄弟姉妹で、毎年持ち回 りで一人とその家族がオーガナイズすることになっている。(つまり、七年に一度、役が回ってくるのである)
お役目に当たった家族は、会場の飾りつけから肉料理の注文を担当する。そして他の家族も、一人最低一品、サラダやデザートを持っていく。

おば達の個性溢れる飾りつけ
▲夫の母方の親戚が一堂に会する
クリスマスパーティ。毎年、おば達の
個性溢れる飾りつけが登場。

難しいことは抜きで、ただ寄り集まって、食事をしてひたすらおしゃべりに興じる。一年に一度しか会えない人とは尚更、近況報告をし合い、子供の成長を愛 でる。毎年のように赤ちゃんが生まれ、家族の輪が更に広がっていくのが手に取るよう分かる。
たとえ年に一度でも、クリスマスという行事を名目に定期的に集まることにより、家族の絆が親から子、孫へと自然に伝わっていくのであろう。縁あって、ス イスの地で大家族の一員に加えてもらったからこそ、この伝統を絶やさないようにしたい。

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