まえ 初めに戻る つぎ われら六稜人【第42回】ワタシガラッキー
     
    30代のころ
    二の窯
    作家としての出発




      笠間へ来る前は四国の安芸で、その時はまだ自分で作家になるなんて考えてなかったんです。でも陶器をやるには、とにかく京都から離れようという気持ちが有りました。京都というのは、もうすでに作家であるとか、ある程度上の段階の話で、まだ私の意識はそこまで行ってなかった。もっと地べたの段階からやりたいと思って、田舎の窯へいったのです。その時はお弟子というのではないけれど、土地の人や後輩を呼んでスタジオというか工房みたいなものをやっていましたが、それ以後は一人です。

      四国にいた頃から、考えてみれば今の仕事の先駈けになるような部分もありました。それとは別に、土産物で窯を成り立たせるために、それまで植木鉢しか作った事のない職人さんに急に轆轤(ろくろ)をひいてもらって湯飲みなどつくったのですが、やはり口つくりや高台つくりなど駄目なので、何とか絵付けしてごまかすというような作業もやっていたわけなんです。その作業の方が多かったかも知れません。
      その中で自分と土との接点がどうなのか、という事はずっと考えていましたが、土でものを作るという場合の、説明しにくいのですが、これだという感覚がまだ自分の中になかったのです。

      でもある時点で、ああ、この手法でいけるかもしれないなという感じを持ったわけです。大きな転換といえばそこですね。そこから「ああ、これで一人で作家としてひょっとしたらやっていけるかもしれない」という気になって、それなら東京で発表しようという感じで関東へ来たんです。そこからは一つの流れはありますね。


      笠間の自邸


      笠間の仕事場

      その後に創って行った作品の原型は二十代の頃にあったと思っています。創り出した時、あ、これは昔考えていたな、というのがある。それが昔は技術と結び付いていなかった。それをどう表わしてよいかわからなかった。ああこれかなという、土との接点があってから、そこから技術的なものでやりだしたら、昔持っていた発想が全部それに出てきた、という感じですね。
      僕の場合はそういう形で出発してみようかなという気になったのです。笠間の仕事場は23〜24年前こちらへ来た時にまず作りました。仕事場を作らないと仕事が始まらないので。お金がなかったのでツーバイフォー住宅の材料を買って、独自の工法で建てました。材料費だけですみますからね。

       
      笠間に仕事場を作った1977年ころ

      初め笠間に来た頃は全部ここの土を使っていました。その後、気が多くて色々な仕事をするものですから、それに合わせて他所の土を使ったりしています。古い窯場、瀬戸なんかでは町工事をしていても、ちょっと掘ると真っ白な土が出てきて、もったいないと思うんですが、関東の土は全体にそんなにいいとこはないですね。関東ローム層で土の層の上にパサパサの灰の土の層があり、粘土の層もぶつ切れている感じですね。

      森の器 -1978-


    つぎ Update : May.23,2001