北野高校3年生のとき |
京都の美大に入っちゃったら、そこに富本憲吉先生がおられたわけです。「この人かっこいい!」とただそれだけでしたね。富本憲吉先生は私が入学した翌年1963年に亡くなられたので最晩年に一瞬すれ違ったような出会いでしたが、私にとって余りにも大きい存在でした。
大学を出たころ |
どういう生き方がよいか一概に言えないですね。
例えば笠間の隣の益子を有名にした濱田庄司さんは、柳宗悦さんとともに民芸運動にかかわったわけです。作為ではなくて、意識じゃなくて自分を無にして作業するというか、芸術じゃなく職人の仕事としていいものができるんだ、という論理で多くの人をひっぱっていったのですが、結果としてその流れの上で作家になった。彼は作品にサインをしないのですが、何故しないのか?と聞かれて、冗談かもしれないけれど「自分がサインしないと、民芸の中で見倣って同じようにサインしない人が出てくるだろう。そうしたら何十年か後になって、その中からセレクトされてその中でいいものが私の物と言われるだろう」と言ったとか…
濱田さんのちゃめっ気で、したたかな人間性には魅力がありました。
濱田庄司 |
柳 宗悦 |
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富本憲吉 |
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●出典 濱田庄司:日本民藝館「濱田庄司」より 柳 宗悦:日本民藝館「柳宗悦の生涯」より (写真提供:日本民藝館) 富本憲吉:奈良県「奈良を作った人々」より (写真提供:富本憲吉記念館) |
京都美大で私の主任教授だった富本憲吉さんは、柳宗悦さんらと親交はあったが、民芸運動には反発して違う世界に行った。でも今の清水焼のデザインの相当の部分に、富本さんがやりだしたクセや調子が出ています。濱田さんがやろうとして出来なかったことを、逆に富本さんはやらないでおこうとしながら、やってしまったところがあるわけです。だから陶芸家の卵である人に対しても、どうやっていったらいいかと言うことは難しいですね。やっている仕事の性格によって違うので。 伝統的に手堅くやっている方もいれば、私のようにそうではない生き方もあるわけですから。