ところが大学に入った昭和28年(1953年)、中国から帰国する日本人を乗せてくる興安丸という船が動き出した。帰りはただで中国へ行けるというんです。おお、これはいい機会だと思って、2回目の興安丸で国に帰ることにしました。国恋しさもありましたし、医者になるのを待っていられない、しびれをきらしたという感じでしょうか。その船での中国への帰国者も1000人はいましたね。8月でした。船が出る舞鶴へ向かうために大阪駅を出発する時には、北野の同級生が2、30人見送りにきてくれました。ホームで「万歳」してくれたりね。卒業して1年半たってましたが、連絡取り合ってくれたんでしょう。感激しました。帰るといっても父に知らせるわけでもない。知人などいない。でも自分たちの政権ができたんだ、自分の「母」の元に帰る、そんな気持ちでした。
北京へついて、日本語ができるというので、最初に連れて行かれたところが中国共産党の中央対外連絡部(中連部)だった。おもに外国の政党との交流を担当します。当時は、役立つことなら何でもやりますという決意でした。すぐ撫順にある日本人戦犯の管理所の仕事につきました。戦犯の取調べの際の通訳です。ただ中国は当初のイメージとはちょっと違いました。最高検察庁長官が隣に住んでいて、ものすごくデラックスな部屋にいて、私は4人一部屋で、風呂もない。長官の部屋の風呂に入らせてくれといって入ってたら、ボディガードが来て出ていけっていう。みんな平等だ、兄弟みたいだと思っていましたが、かなり落差がありましたね。
それに日本では自分一人で思った通り自由奔放な生活でしたが、中国に帰ってきてから非常に窮屈な感じでした。そのうえ私は自由にしゃべるもんだから、よくたたかれた。一番覚えているのは、文化大革命(1966〜1976)の前、毛沢東が「物事はすべて一は分かれて二になる」という哲学を主張した。しかし、「一は分かれて二になる」っていうのは、対立だけで統一という概念がない、「否定の否定」という原則もない、弁証法はそんなものじゃないよって。すると「おまえ、だれに言ってるんだ。毛沢東が言ったことに反対するのか」って。そんなこともありました。
文化大革命のころになると、ほとんどの人が「下放」といって地方へやらされる。私は最北の黒竜江省の非常に寒いところに行かされました。そこでは豚を飼ってました。「われ泣き濡れて豚と戯れた」わけですね(笑い)。でも、豚もかわいいものだ思ってけっこう楽しかったです。それが1971年の終わりごろまで。そのころ、そろそろ日本との国交を回復するという気運が高まって、日本の事情に通じたものを北京に呼び戻すということになって、まあそれで戻ってきたわけです。