後で考えると、北野時代には、それまで暗い顔をしていた私に将来の明るさを予感させた二つのできごとがあるんです。ひとつは、旧制北野中学から新制北野高校に進んだ1949年の4月、中国の解放軍が揚子江を渡ろうとした時、それを妨害しようとした外国の軍艦に大砲を撃ってイギリスだかの軍艦が退散したこと。それを聞いて、おお中国民族が立ち上がったという気がして興奮しました。これで国の前途が見えたような気がして、すこし自信がついた。
もう一つは、北野の環境が非常に民主的で、民族的偏見もなく大事にしてもらった。食べ物がないときには、友人の家でよくメシ食わしてもらった。イモを半分ずつ分けてくれたお母さんもいて、そのありがたさが身にしみた。人生まんざら棄てたもんではないと。人間には、暖かみがあると。
民族的偏見がないというのは、いくつもの事例があげられます。一年だったか二年だったか、自治会の代議員議員選挙で、私が外国人でありながら、圧倒的多数で当選したこと。卒業の翌1953年、中国に帰るときに、たくさんの同級生が大阪駅に見送りに来てくれたこと、とかね。
ただ生活は苦労の連続でしたね。食糧難の時代なので、居候していたその日本の人に迷惑をかけまいと家を出て、最初は朝鮮人のバラックの集落にいって、ニコヨン(失業対策労働)に連れていってもらう。それにあぶれたときには、お茶と石鹸もって売り歩いた。豊中の服部にあった中国人の学生寮にもしばらく住んだことあります。京都の光華寮にも。いずれも寮費滞納で追い出された。最後に落ち着いたところが阿倍野橋の中華料理屋。飛び込みで行ったと思います。そこに住み込みで、毎晩、売り上げと使った材料、卵や肉や原材料の原価の帳簿つくって、それから寝る。
そのころは、自分にとって一番大切な思想は、ヒューマニズムでした。そのヒューマニズムで人類を解放するのは、共産党以外にない、そう信じた。学校の点数を上げるために勉強するというのは、何と俗っぽいものかと。というわけで勉強なんかおろそかにして、休み時間なんかも「アカハタ」持って教室に売り込みに歩く。当時、私についたニックネームが「人民屋」(笑い)。よく「人民」という言葉を口にしていたからでしょう。
文化祭の展示の準備に熱が入る
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部活は社研。廊下の突き当たりを部屋にしていて、マルクスの「学問にとって王道はない」って貼ってありましたね。運動会の時にクラブ対抗レースがあって、社研の旗を持って皆とは逆に左回りに走ったこともありました。20人近くの部員がいたんじゃないかな。社研の文化祭の展示準備をしているときの写真が残ってます。筆で壁新聞のようなものを書いてますね。写真部の足立俊一郎君が撮ってくれたと思います。
3年の時、私が住み込みで働いていた阿倍野の中華料理店にクラスメートが訪ねてきてくれた写真も思い出深い。荒木萬治君、大谷遷君、山家健一君、津田信昭君。ちなみにこの店はいまはパチンコ屋になってます。当時の主人の息子さんがやってる。一度、朝日新聞に私のインタビュー記事が載ったとき、あの段さんでしょうと手紙をくださった。その後は何度か訪ねています。
北野時代、印象深い先生は石田千代之輔先生(1947 〜 63、数学)。2年の時、授業料滞納してたから、紡績会社の倉庫整理のアルバイトを世話してくださった。そこの人はいい人なんだけど、おまえは共産党好きか、何党が好きかとか、個人のプライバシーを探るような感じがあって、それでやめてしまった。先生がせっかく紹介してくれたのに、申し訳ないことをしました。北原富男先生(1948 〜 60、社会)も印象深い。戦後民主主義の時代に、それを北野で実践的に語られた人だと思います。