13歳で日本へ来て、北野を出た翌年に中国へ戻った、早い話が私の人生はそういうことです。生まれは1931年1月、江蘇省です。生後間もなく母が亡くなり、父の再婚相手が派手な人で、子供をなんとかしろといったらしい。小さい時から常州という町の近くで祖母に育てられました。祖母は私が唯一の生きがいだった。でも私は、祖母が愛情を注いでくれるのに反発していた。寒い日など、祖母は上着をもって私を捜し回る。私は逃げ回っていた。
1937年、日中戦争が本格的に始まり、日本軍が入ってきた。農村へ避難するなかで祖母が亡くなった。ほんとうにひとりぼっちになったんです。それで、はじめて愛情っていうのに目覚めたのです。親戚を転々としながら小学校を卒業した。すると父は今度は日本の小豆島にいる日本人の友人に私を預けることにしたんです。
少年時代を振り返ってみると、世の中、つらい、寂しい、そういう思いでしたね。上海には外国の軍艦が浮かんでいたり、大陸浪人の日本人が人力車に乗って金も払わない。民族の前途もない、自分の身もわからない、そういうような状態でした。
日本軍から逃げ回ってようやく生き延びてきたのに、その日本へいくという運命になった。生活するすべもないから、やむを得ず日本に行ったわけです。まあ、棄てられたようなもんですね。上海から一人で船に乗って下関まで。そりゃ心細かったですけど、どうにでもなれと、国の前途も、民族の前途も、自分の前途も全然ないと…。1944年、13歳です。戦争末期で日本の輸送船が沈没、ということも多かった時期です。
小豆島の小学校に入りなおしてしばらく日本語を勉強しました。 中国からきたというので「いじめ」みたいのはありました。「チャンコロ」と言われたりね。でも期間は短かったし、先生はいい人だったから。日本語習得は遊んでるうちに覚えるというもんで、別に苦労しなかった。子供は早いです。半年もあれば一応何でも話せるようになりました。
この小豆島で 終戦を迎えました。私の心境は複雑でした。中国に平和が訪れる、中国国民が苦しみから解放される、その期待感が大半でしたが、その一方で自分はこれからどうなるんだろうと少し不安もありました。小豆島といえば「二十四の瞳」ですが、もちろん当時はまだ発表されていません。あとで読みましたけどね。
終戦の翌46年、高松中学(現高松高校)に合格、高松の近くのお寺に下宿し、汽車で通いました。ところがその日本人家庭が大阪に引っ越すことになって、47年に北野中学2年に編入したんです。