当然、2回目の1年生はバツグンの成績でしたよ。そらそうです、同じことを2回やった訳ですから…。壁つきとまではいかなかったけれども、後ろから2列目ぐらいには座ってました。その時隣にいたのが中江要介君とか、優秀な人ばっかりで…。ボクの真後ろは緒方病院の緒方君(適塾の開祖、緒方洪庵の曾孫にあたる人で、お父上も緒方裕將という名医中に名医でした)。この人は級長にはならなかったけれども、4番以下にもならなかったですね。極めて温厚な紳士で、よく勉強して、いい友人でした。大阪の名家で、兄弟は3人とも北中の出身でした。緒方正美君が僕らの同級生で53期。緒方病院の院長職を弟に譲って今は緒方洪庵記念館の館長さんですね。正世君が一年下で54期、一番下の正名君が56期で…今、緒方君の後を継いで同窓会の常任理事をやってるでしょ。3人とも優秀な秀才でしたね。
彼の1年下には竹内、須古、佐藤、馬澄、檜垣、深尾、永野、飯島など…やはり素晴しい先輩が4年生にずらーっと並んでて、相当程度の高い管弦楽団をやってました。ちょうどこの年に、あの名校長として有名な江崎誠校長から安達貞太校長への交代劇というのがありまして、体育館で行われたその歓送迎会にもオーケストラは出演しましたよ。
しかし北野中学というのは、生徒もよくできたけれど先生方が素晴らしかったね。学識、人格ともに立派な先生ばかりでした。安達校長のおっしゃった言葉に「先生の欠員ができた時には全国から良い先生を探した…」云々と言われたのをハッキリと覚えています。
左から伊藤順造、森信重幸、戸咲金三、田村芳朗 |
さて、喜び勇んで入部したけれども、ボクはホルンがやりたくて先輩にそう言ったら「君の顔はバイオリン向きや。あ、田村くん…君はホルンがいいな」そういうことで配置を決められました(笑)。
それで当時、ボクは学校にあった鈴木バイオリンの安物を弾いてましたけど…ハーモニカ楽団をやめてオーケストラをつくろう…と言い出した時に、当時の校長や先生方が偉かったのですね。既に学校にあった楽器というのが、バイオリンが6つ、ビオラが4つ、セロが2つ、それからコントラバスが1つ。ピッコロ、フルートが1本、クラリネットが2本、トランペットが2本、トロンボーンが2本、フレンチホルンが1本、そんな感じでした。他に打楽器もいろいろあった。カスタネットもあったし…結構いろんな楽器がありましたよ。
それだけの楽器を揃えるのに当時のお金で2,000円ぐらい要ったと思うんですね。フレンチホルンが100円、トランペットが35円ぐらい、バイオリンがだいたい8〜10円の時代ですからね。だから、まぁ2,000円はオーバーとしても、最低1,000円は要ったと思うんです。それだけのお金を誰が工面したのか。
クラブで一番たくさんお金を貰えたのは野球部です。900円ぐらいだったかな。ラグビー部が600円ぐらいで…音楽部はゼロです。まだ音楽部は独立した「部」ではなく、学芸部の一部門の同好会的な存在だったから、学校から支給される部費は無かった。その時代に、それだけの楽器を買ってくれたのは誰か?ということになる。
ボクはやっぱり江崎校長が特別な予算を組んでくれたものと想像しています。たとえ一管編成にしろ…それだけの楽器を一度に揃えてくれた先生の英断は…当時としては偉かったと思いますよ。ボクはこの費用を誰が出してくれたのか極めて疑問で、しかも重大なことだと思う…と音楽部70年誌に向けて書いたのだけど、出版そのものの企画を後輩に委譲してしまって原稿はそのままお蔵入りしています(笑)。
とにかく、当時としては堂々たる管弦楽団でした。