ちょうど十三公園の辺りは「ミードの森」といって…今の3倍くらい鬱蒼と繁った小丘状の森があって、そこにミード神父の創設された「ミード社会館」と「淀川バプテスト教会」があり、教会に付属して幼稚園がありました。ボクはそこの出なんです。ミード幼稚園には舶来の木馬だとかオルガンだとか…当時の日本では百貨店でも目にすることのなかった珍しい玩具があって…それが今でも強烈な印象となって心に焼き付いていますね。2番目の兄貴が熱心なクリスチャンで、日曜の度に教会の礼拝に通っていたことを思い出しますよ。
小学校は十三尋常小学校に通いました。兄の時代には、まだ神津尋常高等小学校の十三分校でしか無かったのですが…4年生までこの分校に通学し、5年生になったら本校へ行く…と。それが、ボクの時には正式な尋常小学校に格上げされていたのです。ちょうどその3年生のころに北野中学の校舎が十三に移転してきたのです。まさかボクがそこに通うことになるとは思ってもみませんでしたがね(笑)。中津から北中の生徒が机やら椅子やらを担いで旧十三橋(ちょうどその頃、十三大橋は新築建造中だった)を渡って来るのを子供ながら遠目に見ていたものです。
さて、それで…どうしてボクがそんな難関中の難関を受けることになったか…ですけどね。ボクの小学校の卒業席次は5番でした。当時、市内の優秀な小学校からは北野へ何人も入ったりしてましたが(一番多かったのは偕行社で…今の追手門学園ですね。陸軍の作った学校で、将校の息子や良家の子弟を通わした学校です。それに「愛日」「集英」「汎愛」「曾根崎」などの有名校…)、郊外の田舎の小学校からはせいぜい入れても一人…という状況でした。だから小学校の進路指導としても席次が1番の者しか受験させないのが普通でした。
「野口、お前は豊中組や。とても北野へは入れん」担任の先生からはそう断言されていました。3番目の兄貴も豊中中学の第10回卒業で、電車通学でした。ところが親父がいわく「藤三郎、お前は体が弱いから…家から歩いて通える中学校へ行け」と。もうその時点で北野しか選択肢が与えられなかったわけです。「それしか許さん。すべったら丁稚奉公や」…非情なる厳命でした。担任の先生は親父を呼び出して「豊中クラスである」旨、説得を試みたようですが、何しろ頑固な親父でしたからね。「駄目です。歩いて通える学校へ行かせます」。そう押し切られて、しょうがなしに北野を受けた。
当時の十三公園 今もほとんど風情を変えていない |