これは、そんなアメリカでの想い出。
Boston Harbor Hotel |
昼間に公園を散歩して、ちょっとしたレストランで食事した、その夜のこと。非常に疲れておったものですから…ホテルのダイニングルームに帰って食事をするのも、正装に着替えるのが面倒でもあったし、部屋には簡単なバールームがあって飲み物がふんだんにあったので、この辺りでピザでも買って帰ってそれで夕食に代えよう…そう、思ってピザ屋に入った時のこと。日が暮れかかってたので18:00前だったでしょうか。行列ができていて10番目くらいだったかな。
中へ入ればそこで食べることもできるお店でしたが、われわれがカウンターで「お持ち帰り」の注文をして待っていると、黒いタキシードを着た年配の白人ピアニストがピアノを弾き始めたんです。客席はまだほとんど空でしたけど。またそれが最高に上手いんですね。クラシックばかり…チャイコフスキーやショパンの小品を次々こともなげに演奏していく。ボクが思わず小さく手を叩くと、彼は一瞬ニヤっと顔をほころばせながら、また次の曲を演奏するんです。
そのうちお客さんが次第に入り始めた。場末のピザ屋のBGM弾きですから…普段は拍手なんかする者もいないんじゃないかな。それがあんまり上手いもんだからボクが聞き惚れて拍手してると、中のお客さんも皆同じように手を叩き初めてね。1曲1曲…クラシックの小品ばかりだったけど、本当に上手かった。だんだん拍手もエスカレートしてボクが本気で叩き始めたら、お客さんも同様につられて大喝采になった。ついに彼は立ち上がって会釈をしてね。
嬉しかったんだろうね。演奏家冥利につきるというのか…。
何曲か…そのような演奏が続いたあとで、ボクの注文したピザがついに焼上がった。ボクが彼に「どうもありがとう」と目配せしてその場を立とうとしたその瞬間、彼はピタリとそれまでの曲をやめて、初めてジャズのナンバーを弾き始めた。それがガーシュインの「Someone to watch over me」。非常に有名な曲ですから、お客さん全員の大合唱になって…曲が終わったときには喝采の嵐でした。そうしてボクが帰ると、また彼は静かなクラシックのナンバーに戻って、いつものBGM弾きに戻っていったのです。
無名の老ピアニストなんでしょうが、技術や腕は日本の中村絃子さんにもひけを取らない位で、かつ円熟したものでした。