この頃…友人が北尾書店にいまして『リーダース・ダイジェスト』を日本で出した有名な書店ですが、丸善と並んで外国から書籍を輸入して日本人のために販売していた会社…そこに「アメリカの楽譜を取り寄せる」よう頼んだのです。
日本ではスコアを起こすと写譜屋サンがそれを丁寧に書き写して譜面にしていたわけです。だから、たった1曲でも相当な労力と手間ヒマがかかって高価なものになっていました。ところが進駐軍に行けば、そんな楽譜が…フルオーケストラ用のパート譜も全部揃った、グレン・ミラーとかが…「これ、演ってくださいナ」といってポンと只でくれるわけです。アメリカ本国には音楽出版社というものがあって(その代表格がカール・フィッシャー社ですが)、楽譜なんかも大量に印刷されて出回ってたわけですね。
北尾書店の彼は、すかさず「野口さんが買うものは売れるに違いない」ということで同じものを2部ずつ合計2,000冊の楽譜を買い付けたそうですが、ボクはその1,000部すべてを買い取りましたよ。その時、ボクは本当の意味での独立を果たしたように思いますがね。
昭和28年12月、これも同志社時代の知人で…宗右衛門町の「メトロ」の並びに世界最大のキャバレー「富士」が新装開店する…そこの企画室長が上野さんという方で「野口さん、今度ウチに来てくれんか?」という話になった。
スィングバンドでは大御所の先輩バンド「アズマニア・オーケストラ」や「堀田実とその楽団」「浜田元治とブルー・セレナーダス」「松岡宏楽団」が入る…というので、タンゴバンドに益原君という同志社の後輩のバンドを紹介し、ボクは新しいラテンバンドを結成した。それが25人編成の大がかりな日本初のフルオーケストラ楽団キューバン・サンダースです。
この時もボクは柿落としを飾ったわけですが、結構いじめられもしましたよ。「あんな学生上がりの若僧に舐められてたまるか…」というのでね。それまでは徒弟制度で育った人しかバンドリーダーにはなれなかったわけです。その頃から大学出の学生バンドがぼちぼち世に出始めていた。
昭和28年の11月に「富士」がオープンして、翌春のキャンペーン用にとイメージソングを各バンドに発注なさったわけですが、アズマニアの東さんなんかは「そんなもん、この俺がやってられるか」ということで無視されたし、真剣に作った堀田さんとボクのがいい勝負で…結局、ボクの作った「富士音頭」が一等特選で大々的に演奏されることになりました。そんなことも、先輩方には面白くなかったのかも知れません。
さぁ、それが昭和29年10月15日のことで「翌月1日から演奏して欲しい」というのには慌てましたね。ボクのバンド「キューバン・サンダース」は富士に出演してる…。にわか仕込みで第2バンドを編成する必要がでてきたわけ。この時作ったのがボクの最後の楽団「リズム・エアーズ・オーケストラ」です。例の少佐が「これはいい名前だから」ということで命名してくれたバンドで、これに初めて弦楽器(ヴァイオリン9人)を編成に加えました。日本初のシンフォニック・ジャズオーケストラの誕生です。
これがまたヒットしてね。音楽専門誌『スヰングジャーナル』の人気投票に出てくるような有名な楽団は関西にはボクのバンドしか無かったんです。1位は常にスターダスト、2位はブルーコーツ。常連はいつも決まってた。みんな東京のバンドでね。ボクの「リズム・エアーズ…」は11位。ところが「ミスター野口の楽団はwith stringsだ」ということで、あちこちの舞台に呼ばれて引っ張りだこの毎日になった。本当にこの頃は忙しかったですよ。観光バスを1台チャーターして「明日は東に、今日は西に…」そういう暮らしでした。
その間に、例の「キャバレー富士炎上事件」が起きて…ドライなもんです。退職金などという発想にはビタ一文なりもせず、社長からは「また、いづれ再建するから…その折には帰ってきてヨ」ただ、それだけ。はい、さようなら。
仕方がないので、半分を洛陽ホテルの急編成バンドとうまく入れ替えたり、神戸三ノ宮に新しくできた音楽喫茶「コペン」の柿落としに回したりして、バンドメンの失業だけは何とか食い止めました。
昭和30年以降は、富士ビューホテル(河口湖)で演奏を続け、その間に臨時に東京雅叙園観光ホテルや山中湖グランドホテルで…やはり、それぞれ米軍専用のホテルのボール・ルームで演奏をしました。ところが、昭和32年11月に米軍の占領政策上「ホテル接収解除令」が公布され、富士ビューホテルでの契約も解除される運命になったのです。
「さぁ、12月からまたどうしようか」…悩む間もなく、絶妙なるタイミングで、再びキャバレー「富士」から新装開店につき12月1日より出演復活の依頼が入ります。しかも、うまい具合に…建築の遅れからオープンが12月15日に延期となり、契約上はすでに前金で報酬はいただいてましたから、それでサンケイホールを借りきって、みっちりと練習時間に充てることができたのでした。
ちなみに…ボクの「リズム・エアーズ・オーケストラ」は人気がありましたよ。特に六稜人に!
何しろ…先輩であろうが後輩であろうが、北野の卒業生の顔が見えたら、その時何を演奏していても「ストップ!! はい、例のヤツ!」てな具合で「六稜の星のしるしを…」と校歌が流れるんだからね。これは有名な話ですよ(笑)。しかも場所がキャバレー・ダンスホールなんだから。皆、喜んでくれた。