昼は学校の先生、夜は駐留軍専用の東山ダンスホールでバンドメンに交じってヴァイオリンを弾くというアルバイト…の二重生活をしばらくは送っていました。けれど、演奏が終わるのが夜の12時、家に帰れば深夜の1時…では、とてもじゃないけど寝る時間がない。朝は6時には家を出てましたからね。それでクタクタになりながら「どちらかを辞めなければならない」という段になると、誠に悲しいことながら給料の多いほうを選択せざるを得なかった。
そうこうしているうちに、昭和26年の9月に楽団に正式に入り、その年の12月に大阪ミナミに「メトロ」というキャバレーができました。千坪の客席に千人のホステス、日本一の大キャバレーで、ここに栗林さんが引き抜かれて出演することになったのです。
ボクはそこで3rd.ヴァイオリンを担当しました。当時、ラテン音楽が流行しはじめて…戦前はスィングバンドやタンゴバンドしかなかったところへ、ラテンミュージック(つまりは、ルンバとかサンバ…最終的にはマンボへと至る)が流行になった。それを演る時だけは、ヴァイオリンから離れて打楽器をやらされました。
これはいまだにわが家の家宝として置いてあるのですが、全部ボクが手製で作った楽器です。マラカス、ギロ、カバサ…こんなものは楽器の付属、補助楽器のようにしか思われてなかったものです。ところがこれが本命なんですよ、ラテンミュージックではね。
今でも楽器屋へ行けば売ってますよ。売ってるけど、椰子の実で出来ていて…とても重たくて使いものにはならない。小柄な日本人向きでないというか…。それでボクは「もっと軽くて、演奏しやすい楽器が作れないものか」思案しまして。京都の古道具屋に行ったら瓢箪が売ってるわけです。その中からバランスといい形といい…一番いいのを選んで、それで同じ音を出せないか…工夫に工夫を重ねて自作したオリジナルがこれ。
これが評判を呼んでね。時代は「マンボにあらずんば音楽にあらず」というくらい、圧倒的にラテン音楽が世界を風靡したブーム絶頂期で…どうしても思うような演奏ができない、あちこちの楽団から注文が殺到しました(笑)。何しろラテンバンドには欠かせない楽器で、他ではどこでも売ってないシロモノだから…これが結構、高く売れましたね。いい小遣い稼ぎになったのです(笑)。
ところが、昭和27年春に「丸玉」さんから「野口さん。貴方はいくら引き抜きに行っても来てくれない、義理堅い人だ。ここはひとつ、貴方がリーダーとして御自分の楽団を編成して、ウチに来て戴くことはできませんかね?」そういう申し出がありました。
「やりなさい、野口さん。それは目出度いことだ。お受けしなさい。われわれの世界で『自分の楽団を持てる』ということほど目出度いことはないよ。ウチは何とかしてアンタの替わりを見つけるから…」そう言って喜んで出してくれました。おまけに、使っていた楽譜もご祝儀の代わりということでそっくり下さった。
今から思うと随分偉い人でしたね。自分のことのように喜んでくれた。