南方○○戦線の朝ぼらけ〜聖壽万歳を奉唱・軍旗に敬禮する第一線部隊 (昭和18年1月初旬の新聞切り抜きより/写真提供:南方軍報道部) |
シンガポールへ来た時は、いくら何でも戦争の最中やからね。護送船団で、敵の攻撃をかわしながらジグザグに進むから21日もかかった。敵の潜水艦を発見すると味方の駆逐艦が信号を出しよるねん。それで船団は一斉にジグザグや。だから前に進めへん。しかもそういう時はコンボイっちゅうて一番遅いやつにスピード合わすやろ。取り残されたアカンから。それで9ノットくらいかな。全然進まへんわ。それで時間が3倍かかったんやな。
それでもサイゴン(今のホーチミン)の沖で何船沈められたか。潜水艦に仰山やられたんや。轟沈やで、ひとたまりもない。オレンジ色の火柱が数十メートルくらいあがって、それきり。もう跡形もない。魚雷っちゅうのはすごいよ。
こっちも駆逐艦が7杯あって護衛してくれてんねんけど。あかんな、やられるねん。駆逐艦が走り回って爆雷を落としていくんや。夜になったら艦砲射撃してくる。滅多にあたらんけど、夜はきれいな花火にさえ見えた。
こっちは普通の汽船やからな。1万トンくらいの貨物船やろ。それでも大砲を装備してて、撃ち返したけど、それも当たらんかったわ。
で、その時の船に赤痢患者が2人乗っとったんや。船の中は全員赤痢。蔓延するんや。船長一人だけ…酒ばっかり飲んで飯食わへんかったから、彼一人だけ赤痢にならへんかった。あと全部赤痢。赤痢いうても怖いよ。O-157と一緒や。脳に来るやろ。だから気違いになる。大声で呻いとるわけや。そら悲惨なもんや。この平和な時代からしたら考えられへん。仰山死んだよ。
わしはまた不思議に助かったんや。シンガポールで入院してな。治療薬もあらへんから絶食や。それから下剤飲む。何回も下剤を飲まされて、それから炭の粉や。木炭の粉を飲まされる。それが菌を吸着して排出するわけ。それで治らん奴は死ね、というわけやな。
ひどかったで。いやぁ、これは辛い。便所行ってキバってもな、出えへんねん何も。血が出るだけ。あとはリンパ液みたいなのばっかり。みんな舷側に並んでキバっとんねん。しぶきがばぁーっと飛んで、そこらじゅう赤痢菌だらけや。極限状態に近い。戦時中はそんなもんや。
で、まぁ…ほうほうの体で復員した。リバティ号は名古屋港に接岸して、そこで新円で1,000円もろて、みんな故郷に帰るんや。どこまで行っても汽車賃はただや。「1,000円で好きなとこへ行け。あとは知らん」そういうことやった。
幸い、わしの場合は親父が会社やっとったから、バッテリー屋で電気自動車なんかを製作してたから…そこへ転がりこんだ。「おまえは俺の後継ぎや。俺の仕事を手伝え」とね。「よそへ行きたい」言うても行かしてくれへんかったよ。しゃあない。貧乏な会社でな。儲からへんねん、あんなもん(笑)。
木村鉛鉄(木村化工機)いう会社があって、一部上場の企業やねんけど、そこの社長が親父の友達でな。うちに遊びに来て「君、うちに来てくれんか。月給73,000円でどうかね」って誘惑しよる。その時、わしが親父から貰てた月給7,000円やで。10分の1や。「行きます、行きます」言うて二つ返事したら、親父が目を三角にして怒りよった。「君は俺の息子を取るって言うのか?」激昂してた。弟も一緒や。「73,000円やったら、ボクも行く行く!」言うたけど。結局、親父は許してくれんかった。あの当時の73,000円いうたら値打ちあったんやで(笑)。