今年…75歳になって、今ごろ絵を描きだしたんやけどな。遅い開花や。はははは。もうだいぶ描いたよ。
それで、しゃあないからな。親父の指定した学校へ行くことにしたんや。清家正いうて親父の友達やわな。その人が校長やってる都立高等工業学校。今の都立工大やな。そこへ行け、言うわけよ。
そう簡単に「行け」言われてもな。入学試験に全然勉強してない科目があったんや。化学、一番嫌いな奴。1molがどうしたのこうしたの…一番苦手や。「おまえ、そんなもんも勉強してないんか」「してないよ」「ほなら神田町行って参考書買うてきたる」また一夜漬けや(笑)。そんな付け焼き刃で入学試験が解けるワケないがな(笑)。
「これ勉強しろ」って親父。結局、難しい問題が出てまったく解けなかった。白紙で提出や。でも、他で稼いでるからな。英語、数学、国語…物理はけっこう勉強したからね。化学だけや勉強してなかったんは。それで受かったんやから。
すごい学校やったで。早出残業のある学校でな。準工場体制や。ほいで機械使うんや。旋盤からミーリングから全部。それから高等数学を叩き込まれて…そういうのがやっぱり必要やねんな「工業」には。
何でも作れたで、その学校で。成績も優秀やった。もともと「ものづくり」は好きやってんから、まるで「水を得た魚」や。製図学でも図面描かしたら天下一品。素晴らしい図面やった(笑)。
普通はここに3年通うねんけど。時局柄、短縮されて2年半で卒業したんや。9月に変則的にね。すでに陸軍燃料省の試験受かってたから…南方へ油を掘りに行くのに志願したんや。もうその時に見習士官の位も貰ってた。それで徳山の精油所へすぐ行かなアカンかった。早速、実地訓練やな。イソオクタンとかブチレンとかブタンとか…ややこしい名前の化石燃料ばっかり扱うわけ。卒業式はその後、帰ってきてから出たくらいや。
今でこそ「ハイオク」言うても当たり前になっとるけど、当時は100オクタンいうたら大したもんやった。戦闘機やったらそれくらいオクタン価の高い燃料を積まんとね、スピード出えへん。そういう勉強を一通りしてから、ついに南方へ赴任することになった。日本石油なんかの連中と一緒に行ったよ。
結局、敗戦。昭和20年の10月に捕虜は全員レンバン島に集められた。シンガポールのちょっと南の無人島や。幹部ばっかり300人はおったね。そこから強制送還。現地に留まった人もたくさんおったけど、彼等のほとんどはインドネシアの独立戦争の時にみんなやられてしもた。かわいそうにな。
帰国の決まったもんも油断できへん。マラリアや。あれに罹ると、飯食わんかったら栄養失調になるでしょ。それがすぐに脳に来るねんな。それで結局、発狂状態で死んでしまうんや。肝臓もやられてまうしな。悲惨なことや。それで何人も目の前で死んでいった。
そやけど不思議なことに、わし一人だけ罹らへんねんな。蚊はそこいらじゅうブンブン飛んでるねんで。同じや。そやけど、わし一人だけマラリアに罹らんかった。帰ってきてからも全然症状は出んかった。まるで神様が守ってくれたかのように。不思議やった。よう、生きて帰って来れたと思うよ。