それで昭和12年(1937)にめでたく北中生になった。校舎はもう十三に移っていたから最寄り駅は塚本。高槻から省線(=国鉄、現JR)の汽車に乗って大阪駅まで。それから電車に乗り換えて塚本駅や。全線電化されたのは北野の4年生の時かな。それまではとにかく大阪まで汽車ぽっぽで出て来てた。ポーと汽笛を鳴らして、ゆっくり動き出すやつ。あれでね。
塚本駅からは全速力ダッシュや(笑)。もっと早い便に乗ればいいんやけど、いっつもギリギリや。改札口をぱーんと飛び越してね。足には自信あったからな。北野でも陸上やってた。長距離選手や。けっこう強かったよ。5000メートルで16分40秒くらいやったかな。対抗戦で優勝したこともある。断郊競走はいつも一等や。スパイクなんか買うて貰われへんかったから、裸足で走っとった。それでも一等なっとったんやで。5000メートルも走ると皮がちょっと剥けよってな。包帯巻いて行くんやけど、すぐ取れてまうねん。痛かったけど、楽しかった。
もう毎日、練習や。北野を出て阪神国道の橋わたって…長柄橋をずーっと回って帰って来る。大体12,000メートルくらいあるわな。それを毎日走るのが陸上部の練習や。帰ってきたら腹ぺこ、勉強なんか出来るかいな。毎日が練習やった。
そんなんやったから勉強はきつかったで。なんせ60点以上取らな落第するんやから。赤点60点やで。そやけど一夜漬けの名手や。予習復習一切なし。出来へんねん、毎日走ってばっかしやから。しんどうて、眠たなってしもてな。
一番きつかったのは数学。これはね、始めにしっかり基礎をやらんと…後からもう付いて来れへん。数学だけは辛かった。今でも嫌いや(笑)。授業で順番が回ってくるわな。「では、次の人〜」しゅーんと首すくめるわけや。宿題やってきてへんさかい。はははは。あれだけは怖かったな。
ボウズ(水鳥)先生の授業風景 撮影:藤田田氏 |
「ギンバエ」いう先生もおったな。数学の先生。本当の名前は何ていうたかな…あだ名しか覚えてないわ。失礼千万やな(笑)。そやけど、教壇でチョークをこーやって揉みよるんや。それが蠅の仕草そっくり。頭にちょっと銀髪まじってたから、それでギンバエや。はははは。ええ先生やったけどね。
校長先生にも叱られたことある。当時は校庭の東南隅に校長官舎があって、長坂校長が一家で住んではった。なかなか温厚な人格者やったけどね。何年生の時やったかな…2つ下の弟も北野に来ていて、よう兄弟喧嘩をしてたんや。校庭の中で弟を追いかけ回しとってん。石投げやがるし、捕まえてどついたろ思て。逃げ足が早うてな、捕らへんのよ。上手いこと石が1つか2つ当たってな。そこへ校長先生の娘さんが来はって注意されたわけ。「本当にそういうことをしてはいけませんよ」それで校長先生にも筒抜けで怒られた。いやーまぁそれは子供やったわ(笑)。
当時は軍国主義の台頭はなはだしき頃や。北野にも配属将校が2人おった。万年特務曹長で「マントク」、犬みたいな顔しとるほうが「チントク」や(笑)。特務将校っていうのは今で言うたら准尉やね、少尉の一つ手前や。わし、このチントクにも怒られたことあるんや。
体育館の南側に兵器庫っていうのがあって、そこに三八式の小銃がずらーっと並べてあんの。そこへラッパ持って行って、よう吹いとったんや。演習の時は、わしラッパ手やったから、分列行進曲を全部吹くんや。あれ…長いこと吹き続けると頬が痛うなるんや。疲れるやん。それで演習の時間始まってしもて整列に遅れたんや。ラッパ吹いとってな。
「後で職員室来い」チントクに呼び出されて、しゃあないから行くがな。「そんなにラッパ好きか?」「はい、好きですねん」「ほなここで吹いてみぃ」「はい、吹きます」言うて。昼休みの職員室で「君が代」吹いたった。そんなら50人の先生が一斉にこっち向くやろ。一気に視線が集まってしもて、さすがのチントクも「おまえ、ほんまに吹くんか。やめてくれ。もうええ、もうええからやめてくれ」はははは。半分くらい吹いたった(笑)。
それで一躍有名になった。「あれか、職員室でラッパ吹いた奴は…」。とにかく、やんちゃやった。やんちゃやけど真面目やで。一遍も欠席せなんだからな。5年間「皆勤」ちゅうやつや。風邪引いても行っとったから。身体は陸上部で鍛えてたからな。元気なんや。