戦局はだんだん怪しくなってくるし…北大っていうのは、全国の大学に比べると何となく反戦ムードがあってね。時の総長が医学部の今裕【こん・ゆたか】さんっていう先生で「文部省は英語をやるなというけれども、私はそれは間違っていると思う。敵国語だからこそ、その言葉を知らないで敵を制覇することができようか」と。ボクらを前にして大胆にぶつわけですよ。「私は君たちに『英語をやるな』とは言わない。君たちの判断に任せたい」という講演があった。
これが当時の新聞でものすごく話題になりましてね。「北大は(英語を)やってる」と。その所為で、戦争がおわって進駐軍から英語で仕事が入ってきますでしょ。すると必ず「お前、北大だから行け」とボクにくる。1年か2年間でも英語をやってたということを皆が知ってるもんだからね。
実は正直いってあんまり何もやってないんだけどね。戦争中だし、山登りにはとくに必要なかったし(笑)。だから慌てて東京の…今の津田大学に英語の講習会に行きましたよ。英会話と英文タイプとね。他に来てる人たちは女性ばっかりでね…大卒の通産省の役人なんてボク一人だった。あの時は楽しかったですよ、周囲みな女性ばっかりでね(笑)。さすがに「帰りに一杯、どう」ってなワケにはいかなかったけどね。
だから修了論文も自分のお金はかかってないんです。先生が軍隊から委託調査を受けて、それの助手として雇われて行くわけ。先生にしてみれば…誰か連れて行くなら、ある程度勉強してる学生を使うわけよ。そうして先生のアルバイトというか…助手をしながら、自分の卒論を書いたんです。
私の卒論はね、静内川の上流…日高山脈のペテガリ山中にね、クロームとかマンガンとかニッケルとかを大量に含んでいる地域があるわけですよ。鈴木醇【すずき・じゅん】さんという先生が専門家でね。その先生のプロジェクトの一部を引き受けたわけ。
食料は人夫に運んでもらってね。一人で山に入り、一人で調査をする。登山部でならしてたから、一人でも危なくも怖くもない…ってことは先生も分かってた。戦局もいよいよおかしなコトになってきて「こんなことしても、しょうがないんだよなぁ」って思いながら山にはいって行ったの。
3日位したら、麓から食料を運んできてくれる小父さんが上がってきて「菊池さん、もうおやめなさい。日本は戦争に負けましたから」って。だからボクは終戦当日も山ン中にいたんです(笑)。
慌てて下山して室蘭まできたら、もう「アメリカ軍が上陸する」って言うんで町はかなりパニックになってました。東京は知りませんけどね、北海道は「女はみな連れて行かれて、男はみな人夫に使われる。どうする?!」ってね。自棄のドブロク呑んでね(笑)。
ボクは何とかして札幌まで帰りたいんだけど、車もなければ電車も走ってないしね。トラック掴えてヒッチハイクですよ。それで、なんとか札幌に戻った。
※出典:北海道大学総合博物館 |
そういう混乱の時代にね。地質学やってる同期生が13人いて、その13人のうち1人だけが…いわゆる大学院生になる許可がとれたんです。終戦直後に文部省が今の大学院のハシリみたいなものをつくる動きがありましてね。予算を出したんです。大学を卒業しても、あと1年2年残ってもよろしい、と。
これに「誰か、行け」ということになった。ところが誰も行きたがらない。喰うか喰えるかわからない時なのにね…皆あんまり勉強なんか好きじゃないから(笑)。
それでやっと決まったのが陶山国男【すやま・くにお】くん。彼はその後「応用地質研究所」という地質コンサルタントの業界を確立するんだけど。当時、古生物学をやってたわけ。彼だけが「大学に残りたい」と言ったもんだから「じゃあ、お世話になれ」ってことで。
あと…1人だけ三井関係者の息子がいて(今はもう閉鎖になりましたけど)炭鉱へ就職しました。他は皆目なし。それで「よっしゃ、もう別れよう」という時にね。「1年たってどうしても飯が喰えなかったら…しょうがない者同士で、共同で飯を喰う算段を考えようやないか」って約束して、みんな散らばったわけです。
結局そうはならなかったから、まぁ大体1年の間にみんな何とか飯は喰えたんでしょうね。