それでね。デキが悪いなりに…4年生修了時に入学試験を受けてみたら、やっぱダメでね。水鳥先生が「立山、それも春山登山をやろう」って言うんで…ちょっと上級学校へ行ってる場合でもなかった(笑)。ところが、次に5年生で受けてもまた落っこっちゃってね(笑)。北海道へ行くのが目的だったから北大しか受けてないし。仕方がないので浪人しましたよ。
さすがに受験3年目となるとね…親の体調も悪かったし、自分自身でも何となく心配で。それで日大も併願したの。そしたら日大の工学部から「ニュウガクヲキョカスル」と来てね。ただし○月×日までに入学金を納入すべし、と。当時でどれぐらいだったかなぁ…結構な金額だったと思いますけどね。それが官立の大学の発表の前日なんだよね。これはもう私立大学の常套手段だけど…子を思う親の気持ちをくすぐって金を集める、という…だいたい私立大学っていうのはそうして大きくなったもんなんですけどね。あれは最悪の商法だ(笑)。
親父がボクに聞くわけ「どうするんダ?」って。ボクはね…北大のほうの手応えがなかったわけじゃないんだけど、現に去年も落っこった実績があるしね(笑)。なんとなく自信が無くって。嫌な心理だよね。で、結局「親父にまかせるわ」ってことで決断できなかった。親父は黙って払い込みの手続きをとってくれたよ。
翌日、北大から「ニュウガクヲキョカスル」と電報がきてね。「しもた〜!!」って叫んでも後の祭りなんだけど(笑)。補欠入学だったから危ないところではあったけど…何とか無事、念願の北海道へ行けることになった。
当時は旧制ですから、いわゆる予科っていうのが3年、そのあと学部が3年…というのが普通のかたちだった。ところがボクは予科を4年やったんです。というのも、後から記録を数えると、だいたい1年間に100日ぐらいは山に入ってましてね。2年生のときに春山をやって帰ってきたら進学の発表があった。
『次ノ者、進学ヲ許可スル』と掲示板に貼ってあって。クラスごとに名前がアイウエオ順に書いてある。当時、一クラスが30人ぐらいだったかな。30人の4クラスで120人ぐらいだったんですけどね。出席呼ばれる時の要領で、だいたい自分の順番はどの辺りか分かってるでしょ。見たんだけど、どう見ても無いんだよね、ボクの名前が。黒く消してある(笑)。
それで、担任の先生のところに「どないなってますか」って聞きに行ったら「君、出席が足りないよ。1年に学校ってのは何日あると思う?」って聞かれてね。一年の約半分、180日位らしいんだけど…「キミ、そのうち100日も休んでるよ」って(笑)。
※写真提供:北海道静内町 |
そんな時に飛び込みましたから、山岳部で受けた教育のなかで「遭難対策」というのが非常に身にしみてるんですよね。自分が遭難したわけじゃないけれども、大事故の直後だったからね。その後にもう一遍やろう…というワケですから。だけど戦争中だからなかなか資材が集まらないし、人の気持ちもなかなか纏まっていかない。ボクはそこで最後まで主任幹事っていいますか、チーフリーダーをやってました。これが…後で話しますけど、南極行きに深く関係するんですね。人間的に。
あとは…日高山脈だとか、日本アルプスだとか…結構、歩きましたね。ボクも「よく金が続いたな」と思うくらいね。そのかわり旅館なんかには全然泊まらないで、汽車で行って、駅でシュラフで寝たり…そんなんばっかり。食料のない時だから本当にもう、粗末なものでね。でも、旨いもの喰ったって喰わなくたって大して違いはないよね(笑)。厳しいけど楽しかったね。