それから…北中時代の僕の一番の思い出はねぇ。停学を一週間くらったことかな。当時は軍事教練っていうのがあってね。鉄砲担いで走ったり、撃つ格好したりする練習をさせられたの。
ある日、西宮球場のまわりでね…当時、周囲は田んぼだらけで…そこで実施するから「集まれ」って集合命令が出た。ところが土砂降りの雨になって結局中止になったんです。「皆、帰ってよろしい」と。だから、みんな喜んで帰った。
2、3日して…土曜日の午後、「こないだ雨天中止になった分を取りかえすから、今からすぐに大阪城の○○門の前に集合!」っていうわけ。「午後1時までに集まれ」って急に言われてもね…。いかにも横柄なんですよ、軍隊は。
そういうのに従順な生徒は多くなかったけど、軍隊は恐かったからね。特に軍事教官は。で、しょうがない…当時、大阪城の中には鉄砲や大砲をつくる砲兵工場があった…そこに若い先生も皆、一緒に集まったわけです。ところが2時30分になっても3時になってもね、入れないんですよ。門の前で待たされたまんまで。
「いま交渉しとるから待っとれ!」って…そんなもん、急に思いつきでやってもね。中学生、百何十人連れて来たからといって、そう簡単には行かなかったわけでしょ。
しょうがないから、その辺の芝生で横になって待ってるんだけど…若い子供にね、昼飯も喰わずに待たしといて…怒らんほうがおかしいよね。終いには先生たちも「もう、帰ろう」って三々五々帰り始めた。
半分以上…ほとんどの人が帰ったのね。で、ボクらも「帰ろうぜ」って。土曜日は友田先生の家に数学を習いに行く日だったから…バルさんっていうあだなでね、西宮にお住まいだったんだけど…考えてみたら今の「受験塾」だよね。当時は学校の教師がそういうことをしてた。
山岳部の友だちとそこへ行くことになってたんだけど、お昼抜きだからお腹が空くでしょ。それで誰からともなく「皆で寿司、喰いに行こ」ということになっちゃった。当時、梅田の新地のあたりに『春駒』っていう安い寿司屋がありましてね。一皿に3つか4つ載っていて、幾皿食べたかでお金払うような店が…あの当時からあったんです。学生とか貧乏な若者に評判のその店をね、ボクらの仲間の誰かが知ってたんだね。それで「行こう」ってことになって「いいよ」ってね。
店に入って、座席について「俺は○○」「俺は××」って思い思いに寿司を注文して…「さぁ、いざ食べよう!」としたら、その時ドアがスーっとあいてね。「君たち、君たち」。
同級生に安藤ってのがいて、その親父が英語の先生だった。あだなが「獅子」。その獅子がね、入ってきたわけよ。彼もボクらがどういう生徒であるか良く知ってるしね…穏便に収めようとしたんだろうけど。職務上「何か、言っておかないと…」と捕まえたんだろうね。
だけど、ボクらが店に入って行くのを後ろから見てたわけだからね。それなら入る前に注意して止めてくれたらいいのに(笑)。「私もね…戸を開けて注意しようかどうか一生懸命迷った」っていうんだよね。見逃してくれればいいのにさ。
さぁ、このことが軍事教官の耳に入った。「ほぼその時刻…ずっと待ってた一部の北中生は、砲兵工場を軍事教練として見学していた。それをサボって寿司を喰らうとはけしからん。教育上よろしくなーい!!」
それで停学処分をくらったわけ。それ一回だけだよ。当時の校長、安達先生が親身に謝ってくれてね。「いや…初めてのことですし、この子たちはみな優秀な子たちばかりです。勘弁してやってください」ってね。それで、すったもんだの末…停学が1週間になった。短縮されたわけよ。
親も呼び出されて、ボクら5人の後ろに一緒に立たされてね…「停学一週間を命ず!」「はいっ」ってね(笑)。
この軍事教官が嫌な奴でね…名前は覚えてないんだけど、顔は今でもよく覚えてるよ。大佐か少佐かな。処分の申し渡しの際にね「お前たちはいい子たちだから上申はしない。しっかりやれ」と確かに言ったの。
ところがね…その後、大学でも軍事訓練やるでしょ。その時に、開口一番「この中に菊地徹というのはいるか?」っていうわけ。「私でございます。」って答えたら「ちょっと来い」ってすぐに連れて行かれてね。「お前は中学校のときに軍事教官に評判悪かったのか?」って聞くわけ。「いえ、そんなことはありません」って答えておいたけどね。ちゃんと上申してたわけよ…しっかり記録に残っていた、と。
どうでもいいことだけど…上申するんだったら「しない」なんて言わなきゃいいんだよね。黙ってればいいものを、わざわざ「上申しない」って約束したにも関わらず、その裏ではキチンと「行い悪しき者」とか何とか、書いてあったんじゃないかな。
軍隊っていうのは、そういう湿っぽいところだったみたいよ…友達なんかに聞いて見るとね。そのことがあってボクは、後世あまり軍隊には関係しないようにしたけどね。軍人っていう手合いが嫌いになった理由のひとつだね。