※合格発表に集まる人々 |
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ボクら、かぶりつき3人組
それから登山部は…今も関係があるんだけど、当時から水鳥先生には大変お世話になった。北中の夏山登山は有名でね。結構、各地へ行きましたよ。長期休暇にね。今の修学旅行みたいな感じで…1年生は大台ケ原、2年生は富士登山、3年生で北アルプス槍ヶ岳に挑戦して4年生は後立山へ。5年生は受験だから無し…みたいにね。決まってたの。3月の春スキーでは立山にも行きました。これは当時の中学生としては非常に珍しいことだっと思います。
普段の週末には近場でね…六甲山とかで岩登りをしてた。登山部として行ったり、個人で友だち同志で行ったり…だから登山部でも芦屋在の友人が多かったの。芦屋っていうと皆だいたい金持ちが多くてね。同級生の師尾なんか…今でいうと関西電力かな…発電会社の偉いさんの息子で、だいたい山登りが終わると「帰りにウチにちょっと寄って飯食ってけよ」となる。グランドピアノなんかが置いてあって…お母さんなんかがピアノ弾いてはる…いや、すげぇ家があると思ったよ(笑)。そいつ戦争中に兵隊になって、死んでしまったけどね。
※十三駅で佇む北中生 |
当時、鳴尾から北野に通う方法はね。やっぱり梅田まで出るんですよ、阪神電車で。それから阪急電車に乗り換えて十三へ。それで…その後どうか知りませんけど、北野中学って大阪府立の中学だよね。だから、大阪府民の授業料と兵庫県民のそれとでは違うんだね。高いんですよ、県外って(笑)。それで毎月の授業料払う袋がね、赤と黒と…印刷が違うの。ボクは確か…兵庫県だから50銭余計に入れてたよ。結構、高かった…という印象がある。
それから甲子園の駅前にね…タキノ(?)って喫茶店がありました。いつもいい音楽がかかってて…それだけじゃなしに、きれいなお姉さんが一杯いたわけだ。そこに行くと必ず津田君がいてね(笑)。ほら、この間…このコーナーにも登場してたじゃない。弁護士やってる津田禎三君。札つきの不良だよね。鞄の中には必ず鉄パイプなんかが仕込んであって…ボクは仲が良かったから、彼の家にはしばしば遊びに行ったけどね(笑)。
考えてみるとね。当時の中学生だって…短刀のひとつは持ち歩いてたもんですよ、平気でね。まさか、それで人を殺しちゃったりはしなかったけど…たとえば、確か中学2年の時にね。深江の商船学校(今でいう商船大学)で、夏の間だけ1週間か2週間…子供を集めて、疑似演習させてくれるコースがあった。そこへ夏休みの間ちょっと行ってくるとね…格好だけは一人前の「船乗り」で、みんな海軍ナイフってのを携帯してくるわけ。綱切ったりするのに要るんだけど…そういうの買ってきてね。今も昔も「スタイルから入る」のは変わらんよね。
ボクの2つ年上の従兄弟が…朝雄といって、神戸の関西電力に勤めましたが…彼も西宮と甲子園の間ぐらいに住んどったんです。彼もかなり悪くてね。菊地朝雄、津田禎三、菊地徹…といえば、悪ガキ三強でしたね(笑)。決して法に触れるような悪いことはしませんでしたけども。
たとえば室戸台風の時。これがすごい台風でね…本当に。ほとんど津波のような高波が押し寄せてきて…上甲子園まで水浸しだった。その時、浜甲子園に動物園があったわけです。甲子園阪神パークのね。
どんどんどんどん増水して…みんな高台のほうに避難している最中に、朝雄が浜のほう目がけて走って行ってさ。お巡りさんに捕まって「あっちいけ!」って…。阪神パークのライオンがどうしてるか見たかっただけなんだけどね(笑)。
まあ、そんな生活してたから…学期末試験ってのがあるでしょ。あれはひどかったね。ボクらの頃はね…試験の成績順に後ろから席を並べかえるんだよね。今はやらないでしょ(笑)。厳しかったんですよ。それでボクは一番前!最前列の「かぶりつき」だった(笑)。どうしても成績は良くなかったね。