ただ、親父が戦争中に徴兵の関係でね「家族は自分のそばがいい」っていうんで、引越す度に本籍を移した形跡があるんですよ。だからその都度、四国に行ったり東京に行ったりしまして…あちこち本籍が変わるんですね(今でも本籍を移すことはできるんですよ、理由によってはね)。
戦争中は「徴兵」というのがありましたでしょ。あれは本籍地の軍隊に入るんですよ。ところが…仕事の関係で住所を転々とした父親が、もう趣味のように本籍を移すものだからね。「どこがお前の本籍地か」って聞かれても答えようがない(笑)。
結局、ボクのさすらいの人生も…実は、先代譲りの「血」がそうさせるんでしょうね(笑)。
ところが神戸一中はその当時からものすごく難しかった。北野のほうがまだ優しそうなくらい…(笑)。それで小学校の先生に「北野中学に行きたい」と言ったの。でもね…実はその最大の理由は、神戸一中のゲートル(巻脚絆)がカーキ色だったのに対して北野中学は真っ白の海軍式!それが、何だかこう…たまらなく格好良くてね。女性の視線が気になる…色気のついてくる年頃だったしね。
今の子供だけじゃないんですよ、表面的な「カッコ良さ」ってのは。ボクらの時代だって一生懸命「カッコイイ」にこだわったもんです。いつの世もまずはスタイルから入るもんなんですよ(笑)。
それで小学校の先生に「北野を受ける」って言ったら、すごく怒られましてね。あの当時でも、ちゃんと「お前の成績だったらこの辺だ」みたいなのがありまして…(今の“偏差値”ほどではないですけれど)…やっぱり進学指導みたいな相談会があったんですよ。親も「北野を受けたって通らん」と言われたらしくて…。
反抗期ってのはありがたいものでね(笑)…そう言われると、逆に「ゼッタイ通ったる!!」って。死ぬほど勉強しました。今でも覚えてますけどね…あのとき先生に「落ちる」と言われてなかったら…本当に落ちてたかもしれません。それからものすごい勉強して…通ったんですよ、見事。僕よりも成績の良かった子が落っこってね。
当時、鳴尾から何人か北野中学校に行ったんですけどね。みんな優秀な奴ばっかりで…僕は成績の悪いほうだった。例えば、セロテープ作ってるニチバンの…(もうとっくに定年で辞めましたけど)…社長やってた大塚くんとか、朝日新聞で山の写真を撮ってた藤木高嶺という男がいるでしょ。彼も鳴尾小から北野に行った同期です。確か4、5人いましたが…後世、みんな大手・一流で活躍しましたね。