武蔵野の林の中に佇む60cm屈折望遠鏡ドーム。
※国立天文台は1988年に東京大学・東京天文台が |
当時、すでにアメリカのロッキー山中にいくつかの天文台がありましたので、北半球の空にみえる宇宙の観測網は比較的整備されていたのですが、南半球の空をカバーする天文台が1970年代まで無かったのです。それでヨーロッパ諸国が国際協力でチリに大天文台を建設していて、そのミュンヘンの本部に1年間客員研究者として招かれたというわけです。
ちょうどその頃、新しい観測装置ができて、それを使った観測テーマの提案を、ぼくが4つほど書いたところ、4つとも採用されるということがありました。しかも、ぼくは部外者…日本からの研究者であるにもかかわらず「提案者であるから、おまえが行ってコミッションしてこい」ということなったのです。
欧州南天天文台4m望遠鏡での観測風景 (チリ、1984年) |
結局、南米チリには3度、観測に出かけました。その後、ミュンヘンに帰ってデータ解析をしたり、その解析用自作ソフトを改良したりという仕事もしました。
この頃…あるやり方で巨大望遠鏡が実現できそうだというアイデアが固まってきたのです。
ぼくは理論の研究者として学位をとりましたけども、机上だけの議論をやってもおもしろくない、観測でその理論が正しいか間違ってるかちゃんと立証できなければ意味がない、とずっと思っていました。日本には理論にすぐれた人が若い人も含めて大勢います。しかし、それを実証できる望遠鏡がない。
岡山に2mの望遠鏡がありますが、街のすぐ近くで、そんな遠い宇宙を観測できるほど暗くないし、天気も良くない。日本の天文学を本当に底上げするには世界の一番いい場所に大きな望遠鏡を作らねばいけないと…これはぼくだけでなく、みんなそう思っていたんです。ただどうすれば良いかについての意見はさまざまだし、誰も本気で諸々の調査をしようということはなかった。
そこで、ぼくは、先に述べたような研究会を進める一方で高感度CCDカメラの開発や、あとで述べる能動光学方式の実証実験に取り組みました。その間に仲間が、ハワイ大学といろいろと相談をして、ハワイ島のマウナケア山の上をお借りするという約束を取り付けたんです。それも1エーカー1ドルで。そのほか、役所とのいろいろ綱渡りめいた交渉やら、それは大変でした。何しろ、海外に国立の研究所をつくることなどは、はじめての経験でしたから。
グリニッジ天文台本部を訪ねて (英国サセックス、1988年)
※当時英国南部サセックスの古城にグリニッジ天文台 |