ぼくが東大に入った年はちょうど大学紛争の年で、5月からもうストライキで授業はありませんでした。そのころ、ぼくは、古典ギター愛好会に入って、でもギターを弾くと言うよりはそこの部室に行って友達を集めて麻雀へ行く、そんな生活を大学1年の時はしていました。それで年が明けて、安田講堂の攻防戦があって、ちょうど1年経って授業再開されました。しかし、その授業再開というのが結構きついスケジュールで、3年間で4年分の授業をやって卒業したわけです。
教養学部が終わると、専門課程の理学部に進学するのですが、そのとき、理学部のどの科に行くか志望を出します。その時は教養課程での成績がものを言います。ぼくは、数学か天文、あるいは応用物理、その三つくらいを考えていました。
数学は高校の時にガンさん、粟井先生にいろんな受験数学を指導されて、おもしろくて、数学者になろうと考えていたこともあったのですが、大学での数学は全く違いました。これはぼくには大変だと、数学志望は割と早くあきらめました。
それで、応用物理か天文かに絞られたのですが、人気学科の天文は、えらい平均点が高くて、ものすごくいい成績でないと入れないという話だったのです。ぼくの成績だと、ちょうどぎりぎりで、これはすべるかもしれないなと思っていました。でも、まあ1年くらい留年してもいいかなとも思ってました。この選択が、実は天文にきた正直なきっかけなんですね。後日談ですが、実際の最低点はそれほどでもなかったらしいのです。
専門課程の天文に進んだあとも、そんなに必死になって勉強しませんでした。就職も考えて、物理上級の公務員試験を受けたりしました。合格しましたので、東京の小平にある当時の郵政省電波研究所、今の通信総合研究所を見学したりしました。偶然ですが、現在この研究所とは仕事上のおつきあいが深く、ぼくの指導した大学院生が就職したりもしています。
結局大学院に入りました。大学院に入って勉強し始めたらすごくおもしろいと思うようになりましたね。研究論文を読んで、天文学でこういうことが解ってないからこういうことやるとおもしろいんじゃないかと、自分で考えて取り組む。そういう場を与えられて、あっ、天文学ってこんなにおもしろいものかと気が付いたのですね。だから、今から考えれば、天文に来たのはある意味で必然だったのかも知れないけど、実際にはいろんな偶然が重なった結果だという気がします。
ぼくの学位論文というのは基本的には数学なんです。簡単に言えば、円盤状の銀河がなぜ渦巻き状になるのかということを数学的に明らかにしたということなのです。銀河は2000億位の星が集団になってさまざまな形状で運動していますが、この渦巻き模様というのは、円盤状にぺしゃんこになった銀河にだけ出るんです。それを今までにないやり方で、それも自分なりに納得いくやり方で説明できたと思う論文が書けて、それで学位が取れたんです。そういう意味で充実感がありました。実はその研究が、8mのすばる望遠鏡をつくる仕事と後でつながったんです。27才の時です。