小学2年生(1956年)ころ? たぶん父母の郷里(石川県小松市) に帰省したときに撮ったもの。 後ろは弟。 |
中学時代に関連する印象深いことをひとつ。大学での最初の夏休みに、突然、中学の同級生から電話で、「おい、家、あしたから八丈島行くからついてこい!」っていうんですよ。実は中学三年の時、新卒の熱血先生が来られて、色々事件もありましたが、その先生を中心にクラスがとても仲よく団結したんです。もちろん結構な悪ガキもいましたが。電話をかけてきたのはその悪ガキの大将だったんです。そのガキ大将が中学の先生と一緒に八丈島に行くという話で、それでは行こうと、八丈島冒険旅行をした覚えがあります。その先生とはいまだに毎年のようにお会いしています。
クラブはESSに入りました。ぼくの同期では女性が4人、男性がぼくを含めて2名の6人だったです。校舎の裏に小さい部室ありましたよね、そこで英語を一生懸命勉強、というよりは思春期で女性もいておしゃべりしたり、ハイキングに行ったりとか、そんな感じだったような気がします。イングリッシュ・スピーキング・コンテストというのがあって確か1回出たような気がしますが、今から思うとほんと、冷や汗ものでした。
勉強面では、北野時代3年間、粟井先生のカリスマ性に惹かれたのかも知れないけど、勉強時間の6割ぐらいは数学をやっていた気がします。ほかに英語をちょっとやって、理科とか社会とかは試験の前にあわててやるくらいだったように記憶しています。数学はあの当時、数研のチャート式数学って言うのがあって、粟井さんはI、II、III全部夏休みにやれと言われて。自分でもそう思って、一生懸命数学の問題と取り組みました。結構、解けたんでその意味で楽しく勉強しました。
ぼくの高校生活でちょっと変わったところと言えば、2年の時に親が東京に転勤になり、1年間下宿して北野に通ったことです。3畳間で机があって本箱があって万年ふとんがあるともう畳が見えないと言う、そういうところで1年間過ごしました。下宿生活ではラジオの深夜放送をよく聞きました。笑福亭仁鶴のディスクジョッキーで、火曜日だったかな、2時とか3時まで聞き居眠りしながら勉強して、翌日はよく授業中にこっくりこっくりして。似たような人が何人かいたような気がします。
こうした話が続きますと、高校生活としては勉強ばっかりしていたと思われそうですが、先ほどのESSの部活だとか、北野の生活を通じてできた友達は、今でもぼくのなかでずいぶん大きな位置を占めています。大学に入っても、文科・理科を問わず、同期の人とは何らかの形でつながりのある人が多かったですし、今でもおつきあいがあります。