実は、祖父・勝太郎とオーギュスト・リュミエール(兄)とがリヨン工業学校時代の同窓生でして、好奇心旺盛だった祖父は、明治29年から30年の渡欧の際に(主たる用件は当時監査役をしていた京都モスリン紡績の工場設計図や機械の購入にあったのですが)、ちゃっかりとリュミエールとの契約も取りつけ、映画何本かと映写機を購入。コンスタン・ジレルという技師ひとりを同行して明治30年1月9日に神戸港に帰国したのです。
当時の入場券 |
面白いのは、京都新京極の大道商人だった坂田某という男を(おそらくはその美声を買って)雇い入れ、舞台で解説をさせたことで、まさに「活弁」第1号の誕生だったのです。
この一連のお話は、映画100周年を記念して最近NHKなどでもドキュメンタリーが放映されましたので、ご存じの方も多いかも知れません。日本映画史の第一歩というわけです。
余談ですが、御堂筋の南端にあったこの南地演舞場跡に、現在は東宝直営の南街劇場が建っています。ロビーの壁には一枚の銅板がはめ込まれており、小林一三翁(阪急東宝グループの創始者)の名前でこの経緯にふれ「・・・日本で最初に映画が人々の目にふれたのは、実にこの場所であった。57年前のこの事実を私は知らずして南街会館建設を企画したのである。誠に奇しき因縁と思っている。1953年11月」という碑文が掲げられています。
結局、祖父はこの映画事業の権利をフランス留学仲間であった横田萬寿之助氏(製麻業)の紹介で、彼の実弟の横田永之助氏に委ねます。この横田商会が後の日活へと発展するわけです。
いずれにせよ、勝太郎がシネマトグラフに注いだ情熱は「欧米の文物をわが国に伝えたい」という明治啓蒙人の情熱であり、かつ、その時すでに「視覚に訴えかけるメディア」の効果が、年齢にかかわりなく愉しめる一大娯楽産業へと発展することを予見していたのかも知れません。