帰国した勝太郎は、まず京都府の染色試験場に入り、そこの所長を務めました。もともと京都府はそれが目的で留学させたのですからね。ひも付きの留学生としては当然の処遇だったのでしょう。
その後、京都織物という会社に技師長として就職するのですが、上司と意見が合わないことが多かったようで、遂にある日「明日から出社に及ばず」と、クビを宣告されます。辞職というような体裁のいいものではなくて、まさに「馘首」というやつですわ(笑)。
上京区(西陣)に構えた最初の店鋪 |
この稲畑勝太郎という祖父が、当時の「国際人」としての使命感からか…手広く活躍した人でして、大正5年には日本染料製造という会社の発起人となり、監査役に就任します。この会社は合成染料を国産化することを目的に作られたのですが、第一次大戦が風雲急を告げ、これまでほとんどすべてドイツからの輸入に頼っていた合成染料が輸入停止となったため、順調なスタートを遂げましたが、いざ戦争が終わって再び輸入解禁となると、みるみる業績が悪化してしまうんですね。それを祖父が引き受けて建て直しますが、昭和19年には住友化学と合併いたしました。
また、大正11年には大阪商業会議所(編注:昭和2年より商工会議所と改名)の会頭となり、昭和10年頃までずっと会頭職を務めあげました。今でも大阪商工会議所に勝太郎の銅像が建っていますので、機会があればご覧ください(笑)。
勝太郎の時代から親子3代にわたり 駐日ポルトガル名誉領事を務める。 |
このように、単なる経済活動にとどまらず、広く民間外交・文化交流の担い手として多くの業績を残した祖父なのですが、最後にもうひとつ…特筆すべきことがあります。日本映画史の祖という一面です。