野外教練の様子 |
先生の思い出ですか?ゴールディ先生…覚えてますよ。2年生の頃に英会話を習いました。でも、反英運動が活発になって結局、帰国されましたね。お気の毒でした。
英語の先生では浅田先生(アメチャン)や上阪先生(キャベツ)などがいい先生でした。それで英語の成績は良かったんです。そう、戦時中とはいえ…北野では英語の授業がしっかりありましたよ。
漢文では、あの有名な鈴木先生(カレヤン)が珍妙なる訳を披露して人気を博していました(笑)。あと、化学の保田先生(ニイチャン)は4年の時の担任でした。それとさっきも出てきたピンタ…記憶に残っているのはこんな所かな。
昭和16年の12月8日に真珠湾攻撃が勃発し、太平洋戦争が始まります。ボクはそれを阪急夙川駅前の本屋のラジオで知りました。ボリュームをいっぱいに上げて道行く人に聞かせているんですね。
校内にも射撃訓練場があった |
翌、昭和17年の3月に四修(という「飛び級」制度が当時ありました)でダイコウに進学しました。大阪高校、つまり現在の大阪大学ですね。この年の入学試験はまだ英語があって数学がなかったから、英語が得意で数学が苦手なボクにはもってこいでした。先生からも「今年入っておかないと来年から入試科目が変わってしまうかもしれん。最後のチャンスじゃ」なんて脅かされましてね(笑)。四修で高校へ行ったのは40〜50人でしたでしょうか。ほかには海兵(海軍兵学校)や陸士(陸軍士官学校)に進む人もありました。
昭和19年。いよいよ戦火が激しくなって、なんと9月に大高を卒業。10月から京都大学の法学部に入学する…ということになりました。10月から3ヶ月だけ講義を受けて12月に試験。それで、もう20年の1月からは学徒動員で京都の桂にあった三菱重工の工場へ行かされました。
エンジンを造る工場で、朝から晩までの重労働。工場の近くで下宿生活ですよ。それで6月に召集令状が来まして、伏見深草の9連隊(東部137部隊)に配属されました。その2ヶ月後に終戦ですから、大した戦争経験とは言えませんがね。
終戦後、京大に戻り昭和22年の9月に卒業しましたが、勉強できたのはほんの1年半ほどでした(笑)。卒業して日本建設産業(今の住友商事)に入社。ここで7年半ほど、社会勉強というか丁稚奉公をして昭和30年に稲畑産業に入社しました。この時、満29歳でした。
まず東京に2年、それから名古屋に3年半いて、昭和35年に大阪本社に戻りました。肩書きは染料部長です。取締役になったのは実は名古屋の頃で、その時はまだ課長でしたから「取締役課長」という珍しい肩書きでした(笑)。
そうそう…軍服の「カーキ色」というのは祖父、勝太郎が発明した色なんです。彼を語らずに稲畑の歴史は語れないのです。