そもそもアメフットというのは、昭和9年に立教大学のポールラッシュという宣教師が日本で初めて始めた。それがすぐに早慶でも行われて、10年には関西に来ていたから…日本9大学は割合に早くから取り入れてたね。ちょうどぼくが小学校に入った頃かな。スポーツマンなら誰でも能力が発揮できる「特性活用」のスポーツで。普通「競技」いうもんは強い奴が必ず勝つ。強いか、上手いか、大きいか…それがスポーツの常識。
ところがアメフットは11人のポジションのほかに、守る11人のポジションと蹴るだけの選手、受けるだけの選手…まぁ大雑把にいって24のポジションがある。これが各々求められる才能が違うわけ。だから今、ずぶの素人を集めた京都大学が強い…というのも特性活用がゆえの話でね。例えば京大の真ん中におる奴は柔道2段で体重98kg。そんなゴッツイ奴がおる一方で、チビでも足の速い選手が必要なんや。アメリカのチームには必ずコンピューターの専門家と医者が混じってる。これはチームにかならず必要な要素で…その他に心理学者がおったりもする。それぞれに持ち場のあるのがアメフットというスポーツなんだ。
気障な言い方をすると…「アメフットは知恵と勇気と秩序のスポーツ」ということになる。知恵はまぁ人並みにはあるやろう、勇気もあるやろう。秩序はチームワークやからね。これは個人の技能とは関係ない。団体競技やから。これら知恵、勇気、秩序の何かの特色を持ってる奴ならイケるわけ。
ぼくはね、大学で4つの競技に出場した。ラグビー、ハンドボール、バスケットボール、アメリカンフットボール。で、昭和21年からはアメフットに没入した。そうして昭和23年の元旦に日本一の王座を獲得したわけ。その後32年間…スパイクはいてグランドを走ったというのは、もう金輪際、出ないですワ。というのも審判層も大きくなったし、ライセンス取るンも難しなったし。ずっと勝ち続けるというのも難しいし、ずっと審判するということも…なかなか勤めの関係なんかでね、難しい。だから、ぼくみたいに…名古屋、北海道、東京に勤めていても自由にやらせて戴けたというのは、もう…ちょっと無いと思うね(笑)
とにかく戦後の甲子園ボウルについては、プレイしたのと審判したのとで併せて34年間ずっと出場したし、通算53年間の試合をぼくは全部見てる。それも数える位しかいないよ…関学の米田君とぼくと2人だけじゃないかな。あとは死んで逝かれたりね。関学の学長していた武田のケンちゃんも…いつも来てるけど、彼もミシガン州立大に一時期留学してたから、その間は見てないハズや。
53年間ずーっと見てる…ぼくの自慢は1965年に日本のオフィシャル・ルールブックを創ったということかな。アメリカンフットボールというのはルールがゴチャゴチャややこしいからね。そのことはぼくの自叙伝に書いてあるけど…今、そういうわけで関西アメリカンフットボール協会の会長をさせてもらってる。
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関西はね、それまで関東に一回も勝ったことなかったから、それで日本一になるまでの「5つのNO」いうのがあった。まずね。今でこそ吸わない人が一杯おるけど…たばこ吸わない。酒飲まない。髪の毛生やさない…丸坊主ね。アトちょっと言いにくいねんけども…まぁ、どっちかっていうと花形スポーツやからね。ぼくらのチーム…結構モテたんですよ、共学やし。だけどセックスはしない。それから最後が勉強しない。No Smoking、No Drinking、No Hair、No Sex、No Learn。
勉強せんとアメリカンフットボールに打ち込め…と言ってもね。ルールブック作るという作業も難しいよ。英語を訳さなアカンから。ぼくが「ミシガン大学のフォーメーションを採用した」って…当時の新聞記事に書いてあるでしょ。簡単に『採用した』というけど…原文は全部英語なんだからね、当り前だけど。当時の関大アメフット部で、ぼくを置いて他に誰が翻訳するか…羽間がせずんば誰がする、と。昭和22年ですからね。みんな予科練ばっかりで英語の勉強なんてしてない(笑)。ぼくは北野中学を出たからできたんやね。
ともかくアメフットというのは、ぼくの人生で非常にありがたい支えだった。