ぼくら日本選手権を勝ち取る為にね、どんなにしごかれて自分自身を鍛えて戦ったか。なるほどアメリカンフットボールは頭でやれと言ってるけどね、頭だけで勝てるワケないよ。頭「も」いる…練習は言わずもがな。その練習が活かせるような勉強を…フォーメーションをつくらなあかん、ということを言ってるわけでね。フォーメーションのデスクワークだけで試合勝てたら、東大が一番強いいうことになるよ。あっはっは。
昔はね…北野中学の席順はきっちり成績の順に並んでた。級長いうたら「壁付き」(=教室の一番後ろ)でもトップ…一番窓際に座ってる。副級長がその対角、最前列の廊下側で…あとはずっと順番通り、あからさま。三番が級長の隣…そこから四番、五番、六番…という具合で。灘中とかと一緒やった。
だからね、図体の大きい奴が前のほうに座ってたらカッコ悪いわけ。わっはっは。しかし、どういうワケか大男は前に座っとったね。賢い人ほど後ろで「壁付き」いうたら、だいたい一流校に行くわけ。ぼくなんか幸か不幸か、戦時下で「体操」とか「教練」とか「武道」とか…そういう体を使う類いの授業が増えたおかげで、それで点数稼がせてもらったけど(笑)、これが勉強だけやったら一番前に行かされるところやったな。あっはっは。
だいたい、運動してる人というのは1年の時からラグビーとか陸上競技をやってる。その人らはね、ハッキリ言うて1、2年のときは全然運動してなかったらしい。勉強ばっかりしてて。3年生の時から…勉強も一段落したし、要するに余り者の集合でハンドボールをしたと。運動能力はあって運動部に入ってない余り者でやった、と。
ぼくも最初は柔道部やった。中之島小学校の頃から中西先生に鍛えられて。それが2年生の時に加藤浪夫いう体操の先生に一本釣りでスカウトされてね。一番先に呼ばれたのは近藤正次君。「北野中学ではラグビーが校技みたいなこと言うてるけど、今まさに時代は日独伊三国同盟。ドイツ国技のハンドボールこそが、これからの競技なんや」と。まず近藤がそれで引っぱられて、江藤やぼくなんかが…みんなそう言われて。ぼく、中西先生に言われてたからね「中学校行ったら先生の言うことを何でも聞いとけ」って。「ハイッ」と即答したよ(笑)。
何のことはない…足の速いのと肩のいいのを、みんな集めたみたいで。何でも一番やないと気がすまない北野やから…1922年に天王寺中学がラグビーをやった。それで「天中に負けるな」で1923年に北野中学もラグビーをやった。はじめは勝てなかったけどね。ハンドボールも一緒で…豊中中学に馬場太郎という先生がいて、この先生がハンドボールを一生懸命指導してた。もう、ダントツで。「1に豊中、2,3がなくて4と5が北中と天中」そんな感じだった。それで加藤さん…ぼくらに期待したワケ。とにかくものすごい勧誘をして…それで12人集めた(まぁ、先生が入れたんか勝手に入ったんか知りませんよ。少なくとも、ぼくは引っ張られて)。
とにかく豊中中学、強かったからね。加藤さん…馬場太郎に偉そうにされるのが悔しいんや(笑)。でもそれは一言も口に出さないで「秘めたる闘志」やけど、ぼくらも分かるねん。「天下の北野中学に、豊中中学何するものぞ」という気概が凄まじかった。
ハンドボールは当時「送球」と言ってた。今みたいに7人制じゃなくて11人制の競技で、普通は各学年とり混ぜてチームを作る。ところが、ぼくら3年生だけで精鋭が12人おったからね…みよしので合宿して、ビンタ(平石先生)がジャコみたいについて来るわけ。もう「学校のため」は通り越して「先生のため」に頑張ったよ(笑)。それで優勝や。加藤さん…そら、喜んだよ。ビンタなんか涙流して喜んでた。何でかというと、加藤さんの創設したチームはぼくらの上の学年が主やった。ビンタはその後から顧問になったから、ぼくらのほうが親近感あったんやろね。とにかく優勝や。北野中学ハンドボール部の黄金期のハナシ…。