確かに戦争というものが忌まわしいものであったことは事実。ただその時はね、その当時ぼくらは「忌まわしい」と思ったらいかんかった。大東亜共栄圏のために頑張るべし…というようなことをやってたワケ。当時はね。今では考えられんと思うけど…本当にね。一日にご飯を腹一杯食べれる人はおらんかった。それこそトウモロコシやナンキンとかね、サツマイモの茎まで食べてやってる…世の中がもう、そういう時代だった。
ぼくら58期は、2年生で大東亜戦争が始まって5年生で終戦の年…まるまる戦争の間、北野中学にどっぷりおったわけです。その中では動員先の軍需工場で直接焼夷弾にあたって死んだ村川君みたいな犠牲者もおるけど、幸い命は助かった。やってることは平時の中学生活と同じようなことだったし、北野中学やからといって恥ずかしいことは一つもなかった。そら、十人十色でいろんな想いがあったと思う…けど、ぼくは田村さんが北野中学に汚点を付けたとは思ってない。むしろ、まったくその逆じゃないか、と。
国民皆兵といわれた時代、世の中のよその学校では「あぁ紅の血は燃ゆる」といってたワケ。こんな唄知らんでしょ?「花もつぼみの若桜。五尺の命ひっさげて、国の大事に殉ずるは我ら学徒の面目ぞ。あぁ紅の血は燃ゆる〜」そう高らかに歌いながら歩いていた。「後に続けと兄の声。今こそ筆を投げ捨てて、勝利ゆるがぬ生産に勇み立ちたるつわものぞ。あぁ紅の血は燃ゆる〜」とね。それが近所の市岡中学やとか浪速商業に至るまで、皆そうしてやってた中で不思議と北野中学だけは全然なし。「何が何だか分からない、ギョロのすることわからない。今日も朝から長話、北中の面目丸つぶれ〜」そんなコト言うてたくらいで…全然違うよね、あははははー。
「ギョロ」いうのは田村校長のあだ名。毎朝、早くから校庭に生徒集めて精神訓話を垂れるのが日課だった。前校長の長坂先生が「良書を読み、人格を磨け」と説いていたのと対照的に、軍人勅語と教育勅語を下敷きにしていて。もっとも、それも立派なハナシだったけど、ぼくら自分の勉強や好きなことする時間が無くなるものだから…長い話されたら嫌でね。だから「あの人は軍国主義でいかん」と今も話の種に面白がって言ってるけども、もし田村校長がおらんかったら…他の中学とあんまり足並みが揃わなくなるんで、北野中学が非難されてたかも判らん。時代がそういう時代やった…日本中が軍国主義に染まっていたからね。白いシーツに醤油をこぼしたわけじゃない、醤油の中に醤油を落としたんだから。落とさないかんヤツをね。
その頃、ぼくら白いゲートル巻いて登校してた。これも本当はやめないかんかったけど…田村さん、そんなコトは一言も言わなかった。それで自分一人で国民服を着てね…外面を合わすことで「北野」いう温室を守っていたような気がする。英語だって、そう。敵国語だよね、そんなもん。よその中学では教練と振り替えになったり、ろくに勉強なんかさせてない。そんな時に田村校長がどう言ったか。「君たちは将来、指導者になる。指導者というのは世界の情勢とか時代の流れとか…時局認識ができないといけない」そういって、こっそり英語の授業を温存していた。
口では「勉強せぇ」とは一言も言わないで、校歌を引用して「大東の邦の運命、青春の肩にかかれり」とか…長い朝礼して「忠節・礼儀・武勇・信義・質素…」ばっかり唱えてた。聞いてるほうは…みんな耳が痛いことばっかりで。むしろ「勉強せぇ」と言われてるほうが楽な人ばっかりやから(笑)。一方で、外から顰蹙を買うことのないように、独り悪者になって(?)踏ん張った校長と、もう一方で「あんなもん朝から話されて困る、軍国主義や何やかんや言うて、けしからん」そういうて、言うこときかんかった生徒とか、足引っ張った先生とか…それら総和としての北野の「良識」のバランスというものが、世間から孤立することもなく、北野中学が立派にやって行けた理由や、とぼくは思う。
これはハッキリした歴史が物語っているんだけど…北野中学でも軍隊に行かねばならないという義務を負っていた。ところが、何人か義務づけられていたが誰も志願者がいない。士官学校、兵学校の志願は一杯いたんだけどね。ただ単に「醜の御楯」になるよりは、頭使って難関突破して士官学校に入ろう、上級職を目指そう…そういう人のほうが多かったように思う。
それで結局、先生の手で8人を選抜した。8人が予科練を受けたんです。そのうち学科試験で3人すべり、2次試験で2人すべった。残ったのが3人。ぼくの同期では、この3人が…涙ながらに予科練に行った。立派な男ですよ、それは。市岡中学なんか何十人か受けて全員が合格してる。北野は「わざとすべったんじゃないか」と思うよね、誰が考えても。
事実、その子ら…後でしっかり高等学校に受かってるからね(笑)。そういう状態だったけれども、それに対して他からは一言も文句は出なかった。多分にそれは校長先生が軍国主義で頑張ってくれてたからじゃないかな。もし、田村さんがおらへんかったら「なんや、北野は!」ということになってたかも分からん。
卒業後のことは知る由もないが…終戦を迎えて、田村校長は島根師範学校に転任されたとのこと。訪ねて行った同級生から「明るくお元気であった」と聞いて、北野在任当時の国民服姿が彷佛と浮かび、ぼくは思わず微笑んだ。毀誉褒貶の中、北野中学の歴史の一ページを飾られた方だと今も懐かしく想い出すんだ。