さすがに中之島小学校には賢い奴がたくさんいて、そこから4人が北野中学を受けた。その4人が4人とも全員通って…校長先生が喜んでね。中西芳三という柔道と油絵の名人なんだけど「北野中学といえば賢い子ばかり行く一番難関の中学。そこへ行くからには、先生の言うことを聞いて焦らずコツコツやりなさい」と。ぼくの実力を知ってたんかなぁ…要するに「お前は上席にはなれん。でもコツコツ、先生の言うことをよく聞いてやったらいい」そう諭してくれた。
いまだに耳に残ってるね。一人一人に違うことを言っていたと思うけど…ぼくは今でもその言葉が身に染みている。だから…悪戯も一杯したけれど、先生の言うコトは素直によく聞いてたよ。今でもその校長先生の顔は…ぼく、絵が下手なので似顔絵は描けないけど…脳裏に鮮明な映像がある。それは、いい先生だった。
さて…小学校では当然、優等生だった。でないと北野中学には通らないからね。それで、いざ試験を受けに行ったらね。昭和15年…中華事変と皇紀2600年で日本が奉祝ムードたっぷりの頃…西洋に対して「東亜、頑張ろう」と踏ん張っていた時代ね。そしたら北野中学…無試験だった。わっはっは。何のために中之島小学校まで通って勉強してきたのか…まったく、びっくりしたよ。「エラい難しい学校や」いうて散々聞かされていて、一生懸命勉強して、受験してみたら…筆記試験が無し。ぼく、受けたかったねぇ…試験!(笑)。分かるだろ、この心理。
せっかく勉強したのに、それが口頭試問…「なぜ2600年はめでたいか」ということを聞かれた。しかも受験番号42番。「“死に番”なんて縁起でもない」といってお袋は泣き面で。もう、こうなったらダメ元でね。「2600年間…外国に侵されることなく、万世一系の天皇陛下を戴いて、世界でこんな立派な国はありません!!だからめでたいのです」と、ハリキリ勇んで答えたら合格だった。
でもね、言っとくけど…全員合格したわけじゃ無いよ(笑)。発表見に行ったら40番、42番、44番…番号は飛び飛びだった。試験もしないで、どうやって合否を見極めたかは分からないけど。内申と口頭試問と体格検査かな…この3つで、とにかく合格した。
そんなわけで、ぼくら1年の時はお祭り騒ぎ。2年の時に大東亜戦争が勃発して…いっぺんに戦時色になって。連日「勝った、勝った」ばかりだったけどね。3年生の時、昭和17年に状況は一転した。「少年よ戦陣へ」…要するに戦場へ行け、ということになった。「鬼畜米英撃ちてしやまん」と。その後だんだん具合悪くなってきて…「欲しがりません勝つまでは」とか、さまざまなスローガンの下で「国民皆兵」の時代が過ぎて行った。