マディソンの酵素研究所にて同僚と
|
グリーン先生との契約は「1年間」ということでした。ところが、いい先生だったのですが、考え方がどうしても全然合わず、私はとても我慢ができなくなりました。「先生…どうも、あなたの考えは私と違う。辞めさせてくれ」。
日本のポスドク(Post Doctor)はあまりそういうことは言いません。だいたい先生の言う通りに1年か2年やって…論文書いて帰って来るでしょ。私は8ヶ月で辞めたんです。グリーン先生のところへは世界中から20人くらいの若い研究者が来ていましたが、その半分くらいはアンチ・グリーン派で、私はそのガキ大将の一人でした。
決して喧嘩をしたわけではありません。戦後の日本から拾い上げてくれて、アメリカへ来させてもらって…多大な感謝こそしていましたが、私は先生の考え方にはついて行けませんでした。
ちょうどその頃、カリフォルニア大学(University of California at Berkeley)から招きがあって「お前、トリプトファンの研究をやっとるなら、うちへ来んか」ということになって、ロックフェラー財団のフェローシップ(研究助成)を取ってくれた。それでカリフォルニア大学のスタニア(Roger Stanier)先生のところで4ヶ月…その間に12篇の論文を出したのです。質はともかくも量的には一番精力的に論文を書いた頃ですね。それこそ24時間働きましたよ。スタニア先生も独身だったし、私も家内を日本に置いて来てましたからね。それも…成果がトントン拍子に出て、面白いからやるのであってね。悲愴感は全然ありませんでしたよ(笑)。
われわれの仕事は…酵素というのは不安定ですぐ分解してしまいますから…昼夜関係ないんです。仕方がないからコールドルームといって摂氏0度の部屋に入って、厚い宇宙服のようなものを着て、実験するわけです。本当に朝昼晩交代で実験して…実験データが出るとすぐに論文を書いて、ぱっぱと送ったものです。あんまり質は良いと思ったことはないのですが、一般に論文というものは数が多いと目立つんでしょうね(笑)。それが契機になって、アメリカの学会で私の存在がちょっと認められるようになりました。
論文が結構評判となって…あちこちのアメリカの大学から「助教授で来い」とか「講師で来い」という話が殺到するようになり、その中から私は、NIHのコンバーグ(Arthur Kornberg)先生のお誘いが一番良いだろう…ということで、2、3年はアメリカにいる覚悟で、家内と娘を呼んでワシントンDCに移りました。そこでようやく人間らしい生活をすることになったのです(笑)。 コンバーグ先生の所でも随分鍛えられました。彼は非常に優しい、本当に尊敬のできる先生でしたね。今でも付き合っていますが立派な人です。そういう…いい先生やいい友達に恵まれたことは、まったく運としかいいようがありません。
ワシントン大学医学部微生物教室のスタッフ(1954年)
|
人間、何が幸いするか分りません。研究なんかやれるような状態でなかったあぁいう時に、試験管に土を拾って来て中に入れてガチャガチャやった研究が、文化勲章とか勲一等とかに繋がったわけですから。
私もよく質問を受けるんだけど、研究というのは何をやってもいいんじゃないですかね。「何をやるか」というのではなく「どうやるか」ということが問題の核心なんじゃないかと思います。癌の研究といってもつまらん研究もありますし…かといって、こういう土の中のバクテリアでトリプトファンの代謝…なんて、いったい何をやってんねん?というようなことが、非常に大きな発見につながることだってある。
ですから研究というのは、他人がやっていない新しいことをどうやっていくか、自分の仕事が学問全体の中でどういう位置づけにあるかということを認識して、そっちのほうへ進んでいくのが大事であって「アメリカでこうだったから、ちょっと真似をしよう」とか「誰それがやったから、今度はこうやろう」とか…振り回されているのが一番ばかばかしい。いかに、独創的なオリジナルな自分の考えで研究を進めていくかということだけだと思います。
(編注:生物における酸化反応は、水素を介して行われ、酸素分子が直接にやり取りされることはない、というのがその当時の常識であった。酸素添加酵素は酸素分子を直接“添加”することにより物質の酸化を触媒する蛋白質で、従来の定説を覆す大発見であった。)