そんなある日、生化学の権威、古武先生が私のところに見えた。「自分は一生かかって何十人という沢山の弟子と一緒に『トリプトファン』の研究をしてここまで来たのだけれど、今は研究のできるような時代ではないし、誰も自分の研究室へ帰ってきてくれそうにない。君は(奇特にも?)何か研究をしているというから…これを使いませんか」そう言って、小さなビンに入ったトリプトファンをくださいました。
トリプトファンというのは…人体を構成しているアミノ酸(20何種類かありますが…)の中でも一番大事なアミノ酸と言われているものです。だから、トリプトファン研究は古武先生はもちろんのこと、外国でも随分やられていました。非常に貴重な試料であったことは間違いないのですが、さて…それをどうしたものか。
いろいろ考えたんだけど、実験動物は無いし、生化学あるいは細菌学の教室で何をどうしたらいいのか分らなくて…これはもう「苦し紛れ」に、土の中のバクテリアを取ってきてやろうと思って微研の裏庭へ行って、焼け跡の土をチョット取ってきました。これを試験管の中に入れ、そこへトリプトファンを耳かきに一杯くらいを入れて、それにチョット水を加えて机の上に置いて、その日は家に帰えりました。翌日、また来て試験管を振ってみます。その翌日も…。そうして3日くらいすると濁ってくるわけですね。
ところがトリプトファンを入れなかった試験管は濁らないんです。このことは、土の中に「トリプトファンを代謝して、それを栄養源にしてどんどん増殖している黴菌がおる」ということを証明しています。とにかく一番簡単な、電気も要らんし何も要らん…水と試験管さえあったらできるという実験です。それを何度か繰り返すと、トリプトファンを分解する菌が、ほとんど純粋に培養できます。その菌で、トリプトファンがどういう風に分解されていくかということを研究しようと思ったわけですね。生化学の初歩の…ちょっと手間のかかる実験ですけど…それを試みたわけなんです。
だけども、その時私が思ったのは、アメリカの雑誌を読んで、最近の進歩を知識として得る事はもちろん大事だけど、研究者は実験をせんとあかん。
それで結局、皆が反対したにも関わらず、しこしことやってみましたら、バクテリアと人間とのわずかな違いが見えてきました。「ピロカテカーゼ(pyrocatechase)」という酵素は、人間には無いが、このバクテリアにはある。つまり、人間や動物でのトリプトファンの代謝と、バクテリアのそれとでは基本的には同じなのですが、ちょっとした違いがあるという事実を発表したのです。これを(水鳥先生の薫陶で!)英文ですぐに発表した。そうしたら間もなくアメリカから手紙が来まして「お前の仕事は非常に面白い。ぜひアメリカへ来て、うちの研究所で研究してくれんか…」。
米国ウィスコンシン州マディソンに酵素研究所というのができて、デビッド・E・グリーン(David E. Green)博士が所長に抜擢されて、世界中から若い研究者を採用しとったのです。インドとか中国からも来ていたのですけれども、日本からもということで、招待状をくれたのでした。