そういう制度があって、私は谷口腆二先生という微生物研究所(微研)の所長をしておられた先生の教室に入った。一緒に阪大に入った多くの友人は、古武弥四郎先生という大先生の教室のほうに入りました。この古武先生は…日本の「生化学の権威」のような方でしたが、この先生の講義が全然面白く無い(笑)。
立て板に水を流すように、ドイツ語と日本語をず〜と黒板に書いていかれて、コッチはただそれを一生懸命になってノートしているばっかり。全然わけも解らんし面白くない。それでも優秀な人はみな古武先生の教室に入ってしまうので、私は「こりゃダメだ」と思って谷口先生の教室を選んだのです
卒業と同時に第2次大戦の最中で…海軍に行き、軍医として3年間ご奉公しました。幸い、無事帰ってきたら、私の住んでいた家も大阪の町も全部、焼野原になってました。阪大は何とか残っていましたし、北野も爆撃ではほとんど損害が無かったようですがね。
それで、とにかく阪大へ行って、谷口先生に「もう自分の家も焼けたし、何より両親は宮津の郷里に疎開して田舎で細々と開業しとる。これから帰って親父の手伝いでもします…」そう、挨拶に伺ったのです。
その時、谷口先生はこう言われました。
「日本はこの戦争に負けたけれども、これから10年20年30年…とかけて日本を再建せなならん。それは君ら、若いもんの責任と違うか?」
そら、確かにそうやけれど、食べるものはないし、住む家も無い。水道も電気も無いような時代ですからね。「えぇ、ゆっくり考えてみます」そう、お茶を濁して「さよなら」する心算で帰ろうとしたら、先生が「いや、君。しかしね…」
そしたら谷口先生…ぼつりとこう仰いました。
「早石君。君は『握り飯より柿の種』というのを知っているか」
「何ですか、それは」私が矢継ぎ早に聞くと、先生は「腹が減っている時に、握り飯を食べたら美味しいし、お腹も一杯になるだろう。しかし、それだけや。柿の種を土の中に植えたら、1年2年3年4年と…だんだんだんだん大きくなって、何年か経ったら柿が一杯実るようになる。大きな木になって沢山の実が実るわけや。君はまだ若いんだから…あまり近視眼的に物事を決断するのではなくて、将来のことを見据えてもういっぺん考え直せ」と言われたのです。今から冷静に考えたら、あまり合理的な話ではないと思いますけどね(笑)。
だけど、その時…私はまだ25歳くらいだったかな。早生れで、北野を四修で終えて、医学部を3年半で終わったので…22歳で大学を出て、25歳で戦争から帰ってきたわけです。まだ「生真面目」というか「世間知らず」でしたからね(笑)…この先生の口説き文句に、巧い具合にコロッと騙くらかされてね。
「そうですか…そういうもんですか…それじゃあ、やりましょうか…」