『説文解字』(四部叢刊本)より「いとへん」の部 |
漢字の学問、中国の伝統的な学問では「小学」といわれる分野に進んだのは、恥ずかしいのでほんとはオフレコにしておいてほしいんですけどネ(笑)、中文に入ったころは唐宋八家文、とくに韓愈という文学者をやってみようと思っていたんです。清水先生はその方面での権威ですしね。ところが若いというのは恐いモノしらずなんですね。3回生の夏休みに『文選(もんぜん)』を読んでいて、若気の至りで考えたんですけど、阮籍の「詠懐詩」という詩がある。この詩を詠んだのは「隠者」とされる人物です。でも「隠者」の詩が、いったいなぜ『文選』という有名な文集に収録されているのだろうか。「隠者」は世間から隠れて暮らしているわけだから、その人が詠んだ詩が表に出てくるはずがない。しかしその作品が文集に堂々と、それも何首も載っている。ということは、彼は隠者ぶりっこしていたんじゃないか、私は隠者ですよ、というポーズをしているんじゃないか、とまぁ大胆にして稚拙なことを考えたわけです。もちろんこの問題は今でも自分の中では解決していませんけどね。
それに文学研究に疑問を感じたことがもう一つ。たとえばある詩人が自分の作品の中に悲しみを詠んで、「嗚呼、哀しい哉、哀しい哉」と詠ったとします。しかし本当に悲しい時には、文字なんか書けっこないですよね。ちょうどそのころ、たまたまちょっと「傷心」にうちひしがれていた時期でもありまして(笑)、ほんとに悲しいときは筆を執る気にもならないことを実感していました。とするとこの「嗚呼、哀しい哉、哀しい哉」は、悲しみを自分の外に置いて客観的に眺めているわけで、この段階では悲しみは昇華されている。今の文学研究は、作品の字面をとらえて詩人の悲しみの源泉はなんだろうと考えていくのですが、果たしてそれは正しい研究方法なのだろうか。昇華された悲しさを捉えて論ずることに意味があるのだろうか・・・そんな生意気なこと考えてました。このあたりはあまりおおっぴらにしたくないのですけどねぇ(笑)、そんなことを二十歳のころ考えてました。
そんなふうに文学研究にぐらついていた時、小川先生が退官前の最終講義で、顧炎武の『音学五書』を読んでおられました。これは音韻学の入門書で、私はこれで「小学」の世界の目を開かれました。小学=言語文字学は、3+5=8という世界です。音韻ほどでもないですけど、文字学も2×5=10という、かなりカチッと数値的にできる分野であって、それを踏まえていくと、たとえば『切韻』がわかれば『詩経』の韻がわかる、というように自分の好きな中国学の体系の中で、議論がロジカルに展開していける。それで小学をやってみようかなと思ったのです。
この分野、やっている人は少ないですね。最近はすこしずつ多くなってきていますが、30代40代あたりの人は現代中国語の文法とか方言とかの研究が中心です。今は中国へ簡単に留学できるようになりましたからね。私のように『説文解字』とか古代の言語や文献学をやっている人間は、今でもまだほんとに少ないですね。全国でさぁ、10人いるかいないかというところでしょう。
『文選』: | 上古より六朝期までのすぐれた詩文を集めた書。 |
阮籍: | 三国時代の魏の人。竹林の七賢の代表的人物。 |
小学: | 漢字の形・音・意味を研究する学問。 |
『説文解字』: | 後漢の許慎が書いた中国で最初の字書。漢字を部首別に配列し字義と字形を解説したもの。 |
六書: | 漢字の組立てに関する六つの法則。 |