北野高校には昭和42年に入学しました。私には3年違いの兄がいまして、兄の卒業と入れ違いで入学です。北野の生活に関する話は兄から聞いていたので、ウブで入ってくる同級生たちとはすこし状況が違っていました。
兄は応援団に所属していました。私は中学校では剣道部でしたから、北野でも最初は剣道部に入りました。ところが私の学年では応援団に入部する者がだれもいない。一つ上の学年には4人も団員がおられて、その先輩…一人はいま北野で教鞭を執っておられますが…が入れ替わり立ち替わりやってきては「おまえちょっと来い」というわけです。応援団に入ったいきさつはそんなところで、3年間通じて、私の学年では応援団は結局私一人でした。
兄と3年違いということは、英語や数学などの先生方がだいたい一緒なんですね。先生方の性格やあだななんかも兄から聞いてましたので、北野にはすっと溶けこめたと思います。ただ勉強の方は…、応援団やってましたし、兄もバンカラな学生でした。ぼちぼち大学紛争も起こりはじめていた、そんな時代でしたから、やっぱり受験勉強ばっかりするのはおもしろくないと感じていたようですね。今の言葉でいえばツッパリですかねぇ。「まじめに勉強する模範生のあり方に飽き足らないものを感じていた」と言えばかっこよすぎるかもしれませんが、ちょっと背伸びしたりして…そのころタバコだけはまだ吸わなかったですけど、酒はしっかりたっぷり、思いっきり飲んでましたねぇ(笑)。まぁかわいいヤンチャ坊主といった程度ですけど。そういうことで、高校時代の勉強のことを聞かれるとつらいなあ、というところです(笑)。
漢文の田上先生には非常に強い影響を受けました。みなさまよくご承知の受験高校で、ある先生など「これは京大の入試に出るからぜったい忘れるな」と露骨に強調される形で授業が展開される。私などそんな気風にずいぶん反発したクチでしたが、田上先生はそういうことを一切おっしゃいませんでしたし、むしろ「インド哲学いう分野がある。それをやるやつが誰もいなければ日本は困る、日本人のだれかがサンスクリットを読めなかったら困るんだ」と、ドロップアウト志向の生徒をあおり立てるような話もされました。奇しくも応援団の顧問でもありました。
その田上先生の漢文の授業の時に、漢和辞典を引く練習がありました。漢和辞典では部首別索引の引き方が特にむずかしい。普通の「てへん」や「きへん」や「さんずい」ならわかるのですが、少し特殊な字となるとぐっと引きにくくなります。ところがこの部首別の配列が、印刷屋の活字ケースでの漢字の配列と同じなのですね。印刷屋の小せがれだった私は、子供のころから活字の配列を体で覚えていて、駆け出しの職人さんぐらいには仕事もできたと思います。部首別索引が活字の配列と同じだと知ると、漢和辞典を引くのがずいぶん楽になりました。クラスの仲間がなかなか引けない漢字…たとえば「巨」は《工》の部で引き、「与」は《臼》で引くなど…でも、私にはたちどころにその所在がわかりました。それだけは絶対に負けませんでした。田上先生はそれをほめてくださいました。口の悪い先生で、めったに人をほめない方でしたけど「おまえは英語も数学もできないくせに、漢和辞典を引かせたら立派なもんだなぁ」。ゴンタ坊主で英語も数学も欠点ばっかり取ってる人間つかまえて「人間だれでもなにか取り柄があるもんだな」と褒められると、弱冠十五歳の紅顔の劣等生はずいぶん喜んで舞い上がったものです(笑)。
母校新校舎の図書館で… 懐かしの岩波新書『中国文学講話』を手に
|
ちょうど岩波新書で倉石武四郎先生(東京大学名誉教授)の『中国文学講話』が出たころでした。田上先生はさっそくその本を授業でお読みになる。 聞いていて、これはおもろいなと思い、帰りに高橋尚文堂に行くと売ってました。さっそく買って、夢中で読みました。中国文学っておもしろいじゃないか、と思ってそれ以後本屋をうろうろしてると、吉川幸次郎という人物の本がたくさん出てました。内の一冊に『中国文学入門』というものがあって、読んでみるとこれまた非常におもしろい。こうしてだんだん深みにはまっていったわけですが、それから十数年たって、大学の研究室で吉川幸次郎先生(すでに名誉教授でしたが)ご本人に、私が中国文学を選んだ理由を話すと、「君も僕にだまされたクチだね」と笑っておられました。ちょっと背伸びして、朝日新聞社から出ていた『中国古典選』(今は文庫になっていますね)とか、岩波から出ていた『中国詩人選集』などを、高校3年のころ、受験勉強などほったらかしてずいぶん読んだ記憶があります。受験勉強は嫌いでしたけど、そんな本は大好きでしたね。