笹部コレクション(12)《三熊派シリーズ1》 八重山桜図【やえやまさくらず】 一幅(絹本着色) 寸法:縦128.2cm 横56.8cm
三熊思孝【みくま・しこう】:作
杉元仁美 |
六如の賛
桜花俗艶恨庸工 寫到半神獨此翁 極罷呉宮捲簾達 西施半醉倚微風
六如庵詩鈔には極罷の代りに宴散の字を充ててある。十円の収入の心当てもない昨今。しかも桜文献に出した金高の最高に少々ためらったがどうふるものかろ買入る。 尺八は大きすぎると思ってゐたが持て帰って本床のかけてみるとさすがに堂としてゐる、萬朶山房文庫の雄さらに一品を加へた。」
桜の花は俗でいう艶やかなさがある。並の画工はそれを恨んでいる。ここに桜を写生して、桜の花を神々しい美しさに描いている。それが出来るのは独り、この翁のみそれはまさに宴を終へ、中国の後宮で簾をまいている処に、西施が半分酔った風姿で微風のなかにいるようだ。
<三熊派>とは
<三熊派>の系譜は天保3年(1832)で途絶えてしまいます。しかし、その後坂本浩然、桜戸(宮崎)玉緒・跡見(桜戸)玉枝らによって『桜画』は描き残されています。 |
三熊思孝:作
いにしえの 奈良のみやこの 八重ざくら
けふ九重に にほひぬるかな」
三熊思孝【みくま・しこう】 享保15年〜寛政6年(1730〜1794)
思孝は幼少より絵を描くことをこのみ、肥前長崎の画家・大友月湖の門人となり、麒麟や鳳凰・龍など架空の動物を描いていた。しかし、思孝は“見も知らぬものを描くことは一時の目を喜ばせるだけであり、世のためにならない”に悟り、“桜が日本国の中で最も優れた花であり、他の国には存在しない、そう言う花を描くことは国の民人のつとめ”と思い至ったです。
この36という数字は和歌的意識から花を選び出すという「花撰」を「歌仙」に見立てて『三十六花撰』と名付けられたのです。これらの桜を彼は画帖『桜花三十六帖』(桜花帖)に描きまとめたのです。 |