杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員
「近世畸人伝」は寛政二年(1790)に、「続近世畸人伝」は寛政十年(1798)に、両書ともに五巻五冊であり、京都の林伊兵衛の外、計六書肆によって刊行された。
日本各地の武士・学者のみならず、商人、職人、農民、神職、僧侶、歌人、さらには下僕や遊女、乞食等々の諸階層の人物100余名の「近世」の「畸人」たちの「伝」を載せた書である。
三熊思孝は自ら近世の隠逸者(=俗世の煩わしさから逃れて、人里離れた所に住んでいる人)の肖像を描き、伴蒿蹊にそれらの人物の伝記を依頼する。しかし、伴蒿蹊に隠逸者の伝記書は以前より多くすでに「扶桑隠逸伝」等があり、近世の隠逸者は少なく、さらに名利のための偽の隠逸者もいる。それならば、隠逸者よりも畸人の伝記書を編纂しようと提案される。そこで互いに人物を求め、伴蒿蹊が畸人伝の文章を書き、三熊思孝がその人物の画像を描いた。「続近世畸人伝」も思孝自らが、すべての草稿をしたためたが寛政六年(1794)に本書を未完成のままこの世を去った。思孝の遺言によって伴蒿蹊が彼の志を継ぎ、草稿は可能な限り手を加えず原文を生かしたのである。挿絵は思孝の妹・三熊露香の筆である。
「近世畸人伝」の題言にて、伴蒿蹊は<畸人>の定義を述べている。<畸人>の「畸」は「奇」あるいは「異」の意味であり、普通の言葉に解釈をすると「一般の人々とは異なった人」と言う意味に把握されてよい。さらにこの<畸人>を大きく二つに分類されている。一つは世人に比べて<行ない>が<畸>であるといわれ、中江藤樹や貝原益軒等の仁義忠孝の人がこの書に述べられている。
もう一つは中国の古典「荘子」にいう<畸人>とは「畸人トハ、人ニ畸ニシテ、而シテ天ニ響フ、故に曰ク、天ノ小人ハ君子、人ノ君子ハ天ノ小人也」と言うものでそれは「万物ノ自然ニ任セ、天性ヲシテ各々足ラシム…」ものであると、その>畸人>とは、人としては「畸」であるが彼らの人間としての在り方は「天」に、あるいは「自然」にかなった生き方をした人たち、という意味に解釈できる。例えば、「近世畸人伝巻五」には後水尾天皇に仕えた医者である「有馬凉及」 (1633〜1701)のまつわる奇談の一つを紹介したいと思う。
●有馬凉及【ありまりょうきゅう】
ある日、嵯峨の角倉氏の治療に赴く途中、凉及は一本の桜の大木を見つけ、手に入れようとしたが、その値が甚だ高かった。そこで角倉氏に借金してその樹を買い、大勢の人に担がせて自宅に持ち買った。ところが家の庭にはそのような大木を植えるような場所はなく、人夫たちが困っていると、
「それならば、木はそのまま横倒ししておけば良い。これは寝ながらみる桜にしよう」といったいう。
【参考文献】
宗政五十緒校注「近世畸人伝・続近世畸人伝」(東洋文庫202、平凡社1972年)
今橋理子「江戸絵画と文学<描写>と<ことば>の江戸文化史」(東京大学出版会1999年)