小林一郎
(78期)
若い園丁たちは次々と兵隊にとられ、武田尾の演習林も充分な管理ができなくなり、それに合わせるかのように物資不足の世の中で、いろんな人が山に入ってきて手にもてるものならなんでも持ち去っていった。食用になる果樹、野草類はもちろん、薪炭用の雑木(時には立ち木を伐採して)、小屋の鍵を壊してツルハシ、スコップ、ロープから新太郎の私物まで。山は荒れた。
「……盗難は初めのうちこそ届けを出して、品目の、価格のと煩わしい書類に悩まされたが、どうせ書類のための書類と見切りをつけてからは、届出はお上へお手数をかけるばかりだとさし控えることにした。」京都御所が芋畑になった時代である。「この非常時に桜なんぞ…」という圧力が四方からかかってきた。
親しい人から「もう日本も影がうすくなってきたから、君もいまのうちにしたいだけのことをしておけ。桜を植えたければ植えられるうちに1本でも多く植えておけ」と言われるまでもなく、新太郎は乏しい資材をやりくりして、とっておきの山桜を植え続けた。奈良橿原街道1万本桜並木、近鉄信貴山麓六万坪40万本大圃場などなど。しかし時代の流れは厳しかった。植樹した翌日には支柱の棕櫚縄がなくなり、その翌日には檜丸太の支柱がなくなり、次の翌日には苗木そのものがなくなっていた。万事がそのような状況だった。
そして終戦。しかし物不足の状況はしばらく続き、出征した園丁達の多くは戻って来なかった。新太郎にとって大きな痛手となった農地改革は資産を大幅に減らし、不在地主ということで地目が畑地であった向日町の圃場を守るのにも苦労した。
武田尾の演習林の方も
「……戦後、これまでの手入れを続ける人にも金にも事欠いて十年を超えてみると、
さすがに疲れを見せる木が著しく殖えてきた。栄えてゆく木を見つづける機会は多かったが、今度は衰亡、枯死に追い詰められている状景を、いやでも見せつけられる順序になった。私は衰退一途をたどる植物の観察もまた、植物人の是非ともやっておかねばならないことだと、自分の一生をうち込んできた山だけにしみじみと思うた。これは決してうらぶれた身辺からの捨台詞ではない。思えば余りに高価な研究費ではあったが、これはモトと年期をかけた尊い経験である。あるがままに委かせてこのままでゆけば、この山の林相もすっかり変って、護ってゆきたい木の多くは二十年も経たずに亡びるべきを目前の例証で会得できる。そして、これは単にタカのしれた私の山だけのことではなく、全国に亘る観賞地帯の林相についてもいえることである。私の山もこのさきなるべく持ち続けてゆく心算ではあるが、手入れができずに林相の変るのと、山の伐採との間の違いこそあれ、風致を生命とする山としてはさして異るところがないことにもなる。私の山と似たり寄ったりの宿命に向い合っているのが全国の桜の名所や名木だといっては思い過しであろうか。」
経済的にも年齢的にも、これまでのように多量の植樹を行えなくなった新太郎の戦後は、いわゆるアドヴァイザーとしての活動が主になってくる。