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久野夫人の談によれば、久野氏がある時珍しい品種の里桜を手に入れてそのことを笹部氏に話しにいったところ、「本来サクラというものは山桜こそが云々・・・」と説教され、すっかり笹部氏の考えに感化されてしまい、帰ってくるなり折角植えたその里桜を抜いて他所にやってしまったとのこと。それ以来広い自宅敷地の日当り水はけのいい場所に苗圃を作り本格的に桜にのめり込んでいった。晩年の笹部氏の目や足が不自由になってからは久野氏が代わってカメラを肩に各地の桜を写してきて報告したり、研究調査の手助けをすることもあった。会社勤めを終えて、笹部氏が亡くなってからは自然と跡を継いだ形となり、笹部桜に関しては久野氏がその第一人者となった。
久野氏の残した業績は大きく分けて二つあるといえる。一つには笹部桜を育成し各地に広めたこと。もう一つは戦前の笹部氏の調査で、これこそが日本一の山桜だとされたものの戦中戦後の食糧難から田畑を広げるために全て伐採されてしまったと言われていた紀州熊野権現平桜を復活させたこと。
笹部氏が岡本の新居に引っ越した時に荷物からこぼれて芽を出したのが、抜群の成長力で5年目にして花を咲かせた。これが笹部新太郎が五歳桜と名付け、周りの人達は新太郎桜と呼び、後に笹部桜と正式に登録された品種であったのだが、奈何せん80歳にならんとする新太郎にはこの「これだけの桜は全国どこにもないと胸を張っている」素晴らしい桜を増やし広めるだけの時間は残されていなかった。笹部氏が直接増やしたのは判っているのでは五本だけである。親しい付き合いのあった文芸春秋社の薄井氏のところに三本。西宮の市長も勤めた辰馬氏に一本。そして久野氏のところに一本、そしてこれが現在全国各地にある笹部桜の親木となった。久野氏は亡くなるまでにおよそ1000本の苗を育成されたと言われている。母校の(旧)正門脇の笹部桜も「笹部桜スポット」のシリーズで取り上げているものも殆どが久野氏宅の親木から増やされたものである。氏は笹部桜を譲り渡すにあたって、日照、土壌、管理体制など生育環境に細かな条件をつけたという。また多くの人に見てもらえアフターケアのしっかりした所ということで、基本的に個人には譲らずに植物園、学校、寺社など公の施設に多く寄贈された。
晩年になって自分の体調を考えて思いきって450本の苗とともに笹部桜の後事を託したのは遠く島根県の木次町であった(前述)。2代に亘る六稜の桜守がここで途切れるような気がして少し寂しい想いがするが、先般木次町を訪れてみて町の熱心な取り組みに久野氏の判断の確かさを実感した。土手の並木道に笹部桜や権現桜が植えられている斐伊川の支流が久野川という名前であるのは全くの偶然だが、見事に咲いている姿を見ていると人間との関わりで世代を繋げてきた桜という生き物の不思議な「パワー」といったようなものさえ感じられる。
つまり、西宮から奥出雲までトラックに載せて苗木を運んだのは人間の都合からそうしたわけなのだが、彼の地で充分な管理保護のもと活着成長し、まるでずっと昔からそこに在ったかのように堂々と枝を広げ花を満開にしている姿からは、笹部邸での誕生、久野氏の多くの苦労、木次町の担当者との何回もの打ち合わせ、運搬、移植などこれまでの多くの時間と人間の活動が、すべて今此地にかくあるべくために以前から用意周到に定められていたのではなかろうかと想われてならない。桜の木の根元には実際の死体は埋まっていなくとも、関わった人の思い、愛情や希望といったものが遺されているようだ。