小林一郎
(78期)
延暦9年(790年)創建のこの寺は最初「安満寺」といい、盛時には天皇の御幸があったほどの格式高い天台の名刹でした。西行法師や能因法師も訪れて歌を詠んでいます。能因法師の「山寺のはるの夕暮れ来てみれば入相の鐘に花ぞちりける」と言う歌は今も長唄「娘道成寺」に使われています。一時衰退の後康保元年(964年)僧千観が再建し「金龍寺」と名前を変えました。千観は「極楽国弥陀和賛」を作り一遍上人の浄土信仰を広めた高僧です。その後高山右近の兵火で焼失、豊臣家による再建と曲折はあったものの江戸時代には桜と松茸狩の名所として知られ、その賑わい振りは「摂津名所図絵」に2頁に亘って残されています。金龍寺桜と能因桜という2本の桜が名物になっていました。明治の廃仏毀釈で大打撃を受け、殆ど無住に近いまま荒れ放題となりました。
本堂跡。 (踏み石の向こうにあるのが金龍寺桜か?) 参道脇に打ち捨てられたままの桜の倒木。 (笹部氏が植えたものだろうか?) |
その新太郎が出会った老僧のあとは続かなかったようで寺籍は岐阜に移され金龍寺は廃寺となり、崩れかけていた本堂も昭和58年にハイカーの火の不始末で焼失しました。参道の石段と放生池の石組みが僅かに寺域の面影を伝えています。筆者はこの春訪れましたが、「太閤道ハイキングコース」の休憩地点として「金龍寺跡」と案内板に名前を留めるばかりで、松柏・竹林に圧されて桜の姿は見当たらず、参道に数本、本堂跡に数本いずれも立ち枯れ状態の古木があるのみでした。その場で休憩していたベテランハイカーに話を聞くとそれでも焼失前の本堂脇の古木が毎年趣きのある花を付けて(小ぶりの八重)それを愉しみに通ったといいますが今見てみると完全に枯れていました。
なおこの金龍寺桜のヒコバエを育てたといわれるものが桑名の照源寺というお寺にあり、巨木となっているそうですが是非確かめてみたいものです。