自宅の書斎にて |
詩文類の収集も多く、現在資料を管理している白鹿の若い学芸員の方も漢籍類の整理にはてこずっておられるようだ。(それでも笹部新太郎の遺した未発表の原稿をまとめて『桜の俳句』『櫻癖』『京のお花見』という三冊の小冊子を印刷し白鹿記念博物館内で頒布するなど着実な活動をされている)
川柳子との付き合いもあり、東西の「番傘」の頭目から数首の句を贈られている。
花は桜人もさくらの一代記
岸本水府
増補改訂版『櫻男行状』に入れられた笹部新太郎の最後の文章ともいうべき「思いかえせば」を抜粋してみる。
例によって批判と自嘲の交じった文章で自分を三流芸人になぞらえてはいるが、どちらかといえば永楽館の館主と同じ生涯といえようか、日本一といってもおかしくないのだが、先ず自分自身が楽しむ桜道楽の部分が大きくて、それが笹部新太郎の業績の評価が分かれるところである。先の小林秀雄の言葉が出てきた所以でもあろうが、しかしこれこそが文化、範囲を狭くいえば上方の町と人から生まれ出た文化と言えるのではなかろうか。「思いかえせば、私はこれまで、何もかも一切をふり棄てて、ただひたむきに桜一筋にうちこんだきた。…(中略)…桜とさえいえば、対手が誰であろうと素裸の一本勝負で戦いを挑んできた。大手とはいえないが、か細い両手を広げて対手を待ったが、今日まで体を合わす人は見つからず、みな体をかわす人ばかりにしか遂に会えなかったことが寂しい。
桜人生を思い返して…
…(中略)…知らぬ人には、いかにも華々しい一生と思われるかもしれないが、やはり一人相撲ということになろう。…(中略)…大正時代、大阪の芝居小屋や講談、落語、浪曲の小屋がいたるところにあって、それぞれの名人上手が演技を競っていた。お役所などの口先ばかりの文化ではなく、大阪の町と人とが造り上げた文化の花が一部貪欲な事業屋の手で、今見るように根こそぎとりつぶされてしまわない、まことにいい大阪時代に、場所も北新地に永楽館という落語の寄席があった。この持ち主の豊かな気持ちからか、それともこの人の普請道楽のせいでか、その建築は日本随一の豪華なもので、これだけ普請に金をかけたのでは、到底ここの興行が割りに合うものとは思えなかった。お客が楽しむより、まずこの寄席の持ち主が楽しんでいたらしい。初代桂春団治がよく私に『私がいつもトリをやるんだが、私はこの席ほど好きなところはおまへん。そのせいかいつも高座が長うなります…』といっていたものだが、この寄席にまだ前座あたりの出る時刻に、落語よりは“独角力”という看板で特殊の珍しい芸をやっている男がいた。この男、よほどの練習を積んでいたものらしく、服装はざっといえば鼠色の木綿の生地で作った、このごろよくテレビに出る忍者の衣装そっくりのもので、相撲の手も始終変えていたので一応はお客の拍手を受けてはいたが、いつの程にか、この男の姿が高座に見られなくなった。もともと一人で相撲の動きをそれも絶えず変える工夫が要ることだし、何といっても芸が淋しいのが無理であったのかもしれぬ。私の桜もどうやらこの男にいくらか似たところがあったのかもしれぬ。が、私はいまではこの男の芸名も忘れ、またその後の消息も知らない。」