恩師を訪ねて【第33回】

『北野百年史』に賭けた情熱

村川行弘先生

    田能を終えてホッとしていたら、浦野校長から「校史をやってくれへんか」と言う。よくよく聞いてみると「近々、創立90周年を迎える。ただし、これは間違 うてるんや」と。「いろいろ文献を調べてみたら…明治6年からの資料が全部残ってる。つまり10年、間違うてる計算になる。ホントは創立100周年なん や」と。それで、百年史編纂の大任が私に回ってきたわけです。それで他校の例をくまなく調べましてね。日本中の校史と称する書籍を見ましたら、みんな「記念誌」なんです。校史なんて呼べる代物じゃない。だったら天下 の北野が、日本で始めて「校史」と呼べる百年史を編纂しようじゃないか、と。私はそういう志しでね。
    ただ…その巻き添えを喰らって、先輩教師の言うことを聞かざるを得ない立場にあった柏尾先生やら深江先生、水落先生は可哀相やったけどね(笑)。世界一の わがまま人間のために、もうどれだけ酷い目に遭うてるか。しかし、ようやってくれたと思うわ。みなさん『北野百年史』を作ったことを未だに誇りに思ってく れてる。「苦しかったけれども、怒鳴られたけれども…今となってはいい仕事をさして貰った」そう言うてくれてる。

    みんな目つきが違ってたからね。授業の片手間にこなしてたわけですけど、みんな家に仕事を持って帰ってた。何しろ…『尼崎市史』なんて編纂に20年かかっ てますからね(笑)。一人でじっくりやってると、やっぱりする気がなくなったら放っておくでしょ。気が向いたら、また始める。ところが『北野百年史』は日 数が限られてますからね。われわれに許された製作期間は2年間…これはありえないことです。
    しかし、その日にでけとらんと…これまでの苦労は何の役にも立たんし、何もしていなかったのと一緒になります。百周年に間に合わなかったら意味ないですか らね。水泡に帰してしまう。それで皆さん一生懸命でした。ようやってくれたと思いますよ。私も、その鬼気迫るものを感じ取って「何とかせなイカンな」と 思ってたけれど、端から見とったらもっと酷かったようです。

    資(史)料の骨格は図書館と倉庫から探し出しましたし、卒業生からの情報提供がたくさんありました。北野の人は思い出の品をみんな大事に仕舞うとってくれ るんで、それもありがたかったですね。「戦艦陸奥で殉職した人が恩賜の軍刀と一緒に北野のバックルをしている…これは北野の卒業生だ」と言うことで身元が わかった、そんな連絡もありました。ともかく、資料はふんだんにありましたね。
    だいたい資料の提供があると、すぐに4人の目で確かめ共通の理解を深めるためにタクシーで駆け付けるわけです。このチケット代も馬鹿にならない金額になっ たと思いますが、杉本事務長が黙って自腹で払っておられたことを後で知って「偉い人もいるもんや」と感激しましたね。このような方々の協力と激励で、百年 史は完成したのです。

    編集もレイアウトも全部私たちでしましたから…印刷屋は輪転機を回したらおしまい。文字校正も全部こちらでやりましたから、だから2千円ほどで出来た。 6,000部くらい印刷したんですかね、確か。それぐらい世の中には出てるんですけど、今探しても古本屋にもないです。
    当時の生徒諸君の中には「これ、枕にして寝てみたら…ちょっとは賢うなるかも」いうて冗談言うてる者もおりましたし「こんな馬鹿でかいの作りやがって」と 悪態をつかれもしましたが、悪口いいながらも、みんな結構大事に宝物にしてるんですよ(笑)。
    大久保利謙という近代史の第一人者にも、当時「初めて校史と呼べる書籍」をつくったと誉めていただきましてね。こうして骨だけ作っておいたら、これからナ ンボでも良くしていけるんです。その後も、柏尾先生、水落先生は校史の補修を続けてくださった。

    聞き手●石田雅明(73期)、小林一郎(78期)、谷卓司(98期)、矢野修吉(101期)
    収 録●Jun.23,2001(北野高校校長室にて)

Update : Oct.23,2001

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