村川行弘先生
現場に女の子たちの更衣場がなくてね。別府慎太郎君(75期)のお父さん(審一氏、42期)が見かねてプレハブを造ってくれた。「何か困ってることはないか」と聞いてくださるので「女の子のトイレがない、更衣場がないんです…」そう言うたら「わかりました」言うて早速、大阪ライオンズクラブでプレハブを一棟、工面してくださった。
発掘調査が終わって、ボランティアにささやかな御礼がしたい。ところが、のべ人数にして2万2千人が協力してくれたらしい。それ…一人100円にしても、物凄い金額になる(笑)。これはえらいこっちゃ…言うて、また卒業生の方に相談したら、別府審一さんが出てきて「その費用、引き受けましょ。タオルを作んなさい。折角やから2種類セットにして…」いうことで、2種類のタオルを記念品にして全員に配りました。これまた同窓会のおかげでね。すべて…何やかや言いながら、六稜同窓会にお世話になっています。
不思議な縁で…最初に定時制で担任した学年と、最後に全日制で担任した学年(昭和44年だから81期ですわ)…このクラス会だけは大体毎年出ています。最初と最後だけは不思議と名前を覚えてますねん。
それ以後は、校史のこともあり担任はしてませんでしたから、担任するだけの余裕は無かったですからね。最後に、北野の定時制に静けさを取り戻すために、また4年間頑張って…それも整理できたので。昭和45年から大阪経法大の設立準備委員に名を連ねることになった。
これも若干、北野絡みで…当時の府知事と教育長がここの卒業生だった。そこへ経法大の創立者が認可のこともあって相談しに行ったんやね。「設立準備委員会をつくりたいと言うてるので、事情知るためにも一遍、顔を出してどんなところか見てくれへんか。もし気にいったら、力になったって欲しい」そういうような要請が複数の人からありました。
結局、経法大には昭和54年に正式に移りましたが、実はそれ以前の昭和42年から近畿大学にも出講していました。田能の職免の間、近大の末中哲夫教授(54期)に授業の代わりを頼んだんです。そしたら「今度、俺のところに薬学部ができて人手が足らんから、頼むわ。薬学部に来てくれへんか」言うことでね。「女子学生ばかりで、綺麗でええぞ」言われてね(笑)。
行ってみたら、もう初日から「おい、窓を空けぇ!女臭うて授業になるかい」言うてね。私は原則的にだいたい男女混合のクラスを持つようにしてましたんですがね、女の子だけちゅうのはアカンわ。北野ではそんなこと感じたことなかったんですけど。年頃の若い娘の部屋というのは男の居れる所ではないです。それでも18年間つきあいましたけどね(笑)。
聞き手●石田雅明(73期)、小林一郎(78期)、谷卓司(98期)、矢野修吉(101期)
収 録●Jun.23,2001(北野高校校長室にて)