アフリカの大地を緑に〜ジャカランタの花咲くジンバブエから【第6話】
湾岸戦争の頃
海外では、テロはシビアな問題です。
政治・宗教・民族が絡む分、泥棒よりタチが悪いと言えます。
ネパール・アンナプルナ山系
(この山麓にもテロリストがいっぱい)
今から10年以上も前に湾岸戦争という戦争がありました。1990年8月2日に、フセインのイラクがクウェートに侵攻したのに対し、翌1991年1月17日に国際連合の多国籍軍がイラクの空爆を開始して、その後、地上軍が侵攻、3月3日に停戦。
私は、1990年5月から家族とともにエジプトに住んでおり、影響はモロでした。ある日、アパートの玄関に降りると、同じアパートの日本人家族が荷物抱えて「先に日本に帰ります。早くしないと、脱出用の航空便なくなりますよ!」 これは、大変と思っても、JICAの専門家は政府の仕事なので簡単には帰れない。とかしてるうちに、ミサイルが飛んでくるからと航空便はストップ。で、いざという時は家族と一緒に隣のリビアにバスで逃げますという話になり、ホンマかいな? 結局、地上戦が2週間で終わったので、助かりました。
この戦争の持つ意味は発端からして複雑怪奇で、結果の評価はそれこそ歴史家の評価を待つべきものでしょう。さらに、湾岸戦争が停戦した後も、イラクの軍隊やフセイン大統領は温存され、9.11同時多発テロに結びついたとの考えもあります。なぜ、フセイン大統領は温存されたんでしょうね。怪しい。
他にも日本の援助をアメリカがポケットに入れたとか、情報操作・ニセ証言と、馬鹿話はいっぱい。ただ、言えるのは、この頃からイスラム原理主義やテロの存在が明確になったということです。
エジプト・ルクソール
(4000年の歴史に直接、手で触れられる魅力は換えがたい)
1993年に帰国した後、1997年にエジプトのルクソール(かつてのテーベ)で日本人10人を含む60人がテロリストに殺害されるという事件もありました。
ネパールでも毛沢東主義を掲げるマオイストのテロ騒ぎがありました。
テロから身を守るために、私は、身近な現地の方との関係を大切にしていました(ジンバブエでも)。メイドさん・運転手さん・ボーイさん・警備員さん・職場でいつもニコニコしている掃除のおじさんおばさん。
自分で雇っている場合は、給料というインセンティブは大切ですが、特別の用事の時に、お小遣いをあげるとか、「あなたは、私にとって大切な人ですよ」というメッセージをいつも発信する必要があります。
特に運転手さんは技能労働者であり、雇い人のチーフみたいな存在ですから、大切にしました。すると「今日は大学の前でデモがあるから、通勤ルートを換えた方がよい」とか、「今日はゼネストだが、あの店は裏から入れば売ってくれる」とか教えてくれます。ジンバブエでも「パンが町中から消えたが、朝1番なら3倍の値段で売ってくれる」とか。
気さくな親子〜ジンバブエ南部にて
(テロリストだって人間。親子の情はあるはず)
※写真のこの人たちはテロリストとは何の関係もありませんよ(笑)。
で、雇い人の給料は、必ず家内から渡していました。でないと、家内の言うこと聞かなくなるでしょ。と、人事管理の難しさを家内に知ってもらうことで、苦労を分かち合うという面も、これあり。
情報も大切ですが、連絡網とかで伝わる公式情報というのは、相手国政府が公式に発表するものですからね。信用に値すると思いますか?
あと、US$100の札束を1万ドル分、タンスの中に。それも連番のピン札で。連番なら、偽札とは疑われないでしょう。旅行小切手なんて、紙切れですよ。クーデターになれば。(この前のタイの場合はちがうけど)
Last Update: Feb.23,2007