「駅」シリーズと重なる部分も多々あるかと思うが、時代背景について述べる。 スイスでの「ベル・エポック」(フランス語で美しい時代)は1895年から1914年の20年ほどと見なす歴史家もいるが、ポラントリュイのそれは、おそらく鉄道・駅建設を発端として考えて間違いはないから、1870年代半ばには始まっていたと考えても良いだろう。 この時代、「普仏戦争」(1870−71)終了後、ヨーロッパは、第一次世界大戦までの束の間の平和と第二次産業革命によってもたらされた経済的飛躍を堪能していた。産業革命の進行によって工場経営者に富が集中すると、その富は新興の中産階級の住む都市に流れ込み、都市文化が宮廷文化に取って代わった。
鉄道の発達により長距離旅行が可能になり、中流有産階級者は各国の美を持ち帰り、自国文化に溶け込ませた。この時代に流行した装飾美術、そして広い意味では建築を含め、「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術)と呼ぶ。この名は、パリの美術商、サミュエル・ビングの店の名に由来する。装飾に於ける特徴は、有機的な自由曲線の組み合わせ、鉄やガラスを素材として使っていることである。 ポラントリュイの発展は、「漁夫の利」であったかも知れない。「駅物語その2」で述べたように、普仏戦争に負けたフランスは、ドイツ帝国にアルザス全てとロレーヌの一部を譲渡しなければならなかった。この支配により、フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザスを通らずにスイス入国を可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。フランス国境の町デルとポラントリュイを繋ぎ、険しい崖が阻むサンチュルサンヌの高架橋の経済的支援もした。こうして、イギリスから海を渡ってフランス、スイスからイタリアへと繋がる鉄道網が完成した。
人口僅か7000人足らず。ルツェルンのような世界的観光地でもないし、かつて時計産業華やかりし頃の面影は無く、中小の工場が生き残っているだけ。どこといって目立たない小都市ポラントリュイは、掘ればいくらでも歴史遺産という名の宝が出てくる宝の山のようなものだ。スイスに来た日本人観光客が、山と観光地だけを駆け足で見て帰ってしまうのがいかにも残念である。そんな思いもあって、この歴史シリーズを綴ってみたが、少しでも興味を抱いて下さった読者はいたであろうか。「百聞は一見にしかず」という諺にあるように、是非訪れていただきたいスイスの小都市として、これからもワールドアイのページを借りて皆様にお伝えしていきたい。 Mes remerciement particuliers s'adressent a : Monsieur Marc Thévoz de Bure
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