1792年、フランス大革命軍は、ポラントリュイを含む旧バーゼル大公司教区を占領した。封建制度からの解放は、住民が自由と民主主義を謳歌できる体制へとは、すぐに結びつかなかった。恐怖政治、そしてナポレオンの統治。ナポレオン没落後、スイス国ベルン州への従属。歴史の大波小波は、独立に向けて、住民の精神を鍛え上げていく。 ごく忠実に建築史に沿っていくと、バロック後はロココ(語源はロカイユ=貝殻模様の装飾)様式となっている。時期的にはフランス王ルイ14世の在位期間の終わりあたりからフランス革命勃発前まで。そしてさらにロココを二つの様式に大別すれば、オルレアン公フィリップの摂政時代(1715−1723)をレゲンス様式、その後をルイ15世様式(1723−74)という。(ちなみにその後はその人生同様、短期間のルイ16世様式。ポラントリュイでは有産階級者の家の扉や窓などで見られる)
フランス大革命勃発。革命軍到着直前、バーゼル大公司教は国を捨て去った。逃亡生活が老体に応えたのか、2年後、亡命地コンスタンスで無念の死を迎えた。 ロココにはほとんど縁が無く、それに続く新古典主義建築が根付かないまま歴史主義建築の中に埋没していくと、ポラントリュイは身を翻したようにアール・ヌーヴォーに飛びついた。ポラントリュイで華麗な花を咲かせたアール・ヌーヴォーについては次章でたっぷり述べるとして、ここでは影薄い新古典主義建築物をご紹介する。
新古典主義建築とは、18世紀後期に啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式である。革命以前も、農民紛争鎮圧の梃入れを頼んだことをきっかけとして、フランス王家とより繋がりを深めていた司教公国だが、いかんせん、時期的にはあまりに短期で、しかも続く革命の動乱と恐怖政治の最中、流行に沿った新しい建物を建てる余裕はなかったようである。革命前・大公司教の権力の絶頂期、写真(上、2枚目)のようなバロック建築の中央市場の東壁に取り入れられたぐらいである。 三角形の切り妻壁の中には、棍棒を持った二人の巨人が腰掛けている。この豪奢な建物は、革命軍に占拠され、その後、1年足らずの革命政府ローラシアン共和国国民議会場→フランス共和国モン・テリブル県庁→ナポレオン政府下のオー・ラン県郡庁が置かれ、皮肉にもフランス支配体制の象徴的建物となった。また、ベルン政府下では裁判所と警察があり、常に権力と結びついてやまない数奇な運命をたどった。現在、州立図書館・古文書図書館・古生物学&考古学研究所が置かれ、名実共にジュラの知的象徴たる建築物となったことは、誠にめでたい。 革命・ナポレオン時代を経て90年。JUVENTUTIという学校が新古典主義様式で建設された。この建物は現在でも幼稚園・小学校として利用され、次女が二年間お世話になっている。改築はされているが、複雑に入り組んだ造りで、広いとはいえない中庭もあり、小学校というよりは当時のお屋敷という趣である。 さて、新古典主義とアールヌーヴォーの間に位置する、便宜的とも言える様式に歴史主義建築(折衷主義様式ともいわれる)がある。新古典主義建築では古代ギリシア・ローマの建築が理想とされたが、19世紀になると中世のゴシックや近世のルネッサンスが再評価され、過去の建築様式のリヴァィヴァル運動が起こった。写真の、改革派教会(プロテスタント教会)はネオ・ゴシック、現在はアパートとして複数家族が住む建物(1905年建設)は、ネオ・ルネッサンスと位置づけられる。
これは私的な感想であるが、「新、ネオ」様式はいずれにしても過去の踏襲なので、嘘っぽいといか、本家に比べればどことなく重厚味に欠けるような気がする。日本の娯楽施設で、突然、ローマ神殿風の内装に出くわした時の気持ちと似ているかも知れない。 |