Salut! ハイジの国から【第21話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:
スイスで一番有名なジュラの村〜Courgenay

その2 ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男(2)

 農民代表団はアンリエット夫人の文書を尊重するように大公司教側に働きかけたが、既に無効だとはねつけられた。結局、神聖ローマ帝国から代表者として使わされていた駐スイス・ライヘンシュタイン伯の調停に頼ることになった。思わぬことに、ライヘンシュタインは農民の正当性を認めた。
 予期せぬ勝利に狂喜した農民の一部は大公司教の顧問であるラムシュワグ男爵の所有地で暴徒化し、大損害を与えた。この無益な行為がすべての不幸の元凶であったと言えるかも知れない。
 その後も、興奮やまない1700名の農民達は武装し、指導者ピエール・ぺキニャを逮捕しに来た軍隊に立ち向かい、撃退した。  農民代表団はウィーンの帝国裁判所に、税の支払いを年一度のみにする判決を下すよう訴えた。この時、ぺキニャは再び大公側の手に落ちそうになったが、護衛の騎馬兵が撃退した。

 
▲市庁舎前でのピエール・ぺキニャ(白髪の男性)の
処刑風景を描いた絵(ジョゼフ・ウッソン作)



 5年後、アジョワの各役場前に判決文が掲げられた。
「民衆はあらゆる点において正当ではない。すべての訴えをここに却下し、各々の仕事に速やかに戻るよう、強く命じる」

 判決に打ちのめされたものの、反乱軍は闘争を再開した。ジャック・コンラッドの後継者であるジャック・ジギスモンド・ド・ライナッハ大公司教(別名傲慢大公とも呼ばれる)は、反乱を鎮圧するため、フランス国王ルイ15世に援軍を頼んだ。

 ぺキニャは大公司教の支配を逃れスイスの一州として独立したいと策を練り、代表団と共にベルンを訪れた。しかし、却下され、意気消沈してアジョワに戻る途中、大公司教の密使にBellelay(ベルレー)で捕らえられてしまった。
 ぺキニャはSaignelegier(セニュレジェ)で投獄された後、1740年5月2日、ポラントリュイ城の牢獄に移送された。ここで彼は六ヶ月間取調べを受け、905もの質問に答えなければならなかった。その結果、検事はぺキニャを反乱と大逆罪によって起訴するのに必要な証拠を手に入れた。ロセ弁護士の果敢な弁護も虚しく、71歳の老指導者は同年10月26日、死刑判決を言い渡された。首謀者格であるリアとリオンも同判決だった。

 10月31日、3人はポラントリュイ市庁舎前にて、首をはねられた。
 刑はそれで終わらなかった。ぺキニャの首は故郷のコージョネ村に向けて放置され、体は四つ裂きにされた上にアジョワの各役場入口に吊るされたとも、ポラントリュイの四つの門に吊るされたとも言われている。首謀者達の財産は没収され、ぺキニャの息子は重労働の刑に処せられた。

 
▲現在の市庁舎前
(右手の黄色い建物が市庁舎。処刑21年後に改築)


 蜂起は完全に鎮圧され、農民は益々重税に喘ぐようになった。フランス革命の波がアジョワにも押し寄せたことで、1792年に大公司教の支配は終わりを告げ、フランス国家に属することになったが貧しい土地であることには変わりなかった。若者はナポレオン政府軍に従軍したが、帰郷できた者はほんの僅かであった。
 ナポレオン没落後、1815年のウィーン会議にてアジョワを含むジュラ地域はベルン州に従属する形でスイス国土として認められたが、一つの州として独立するには164年もの歳月を待たねばならなかった。

 権威に屈すること無く獄中でも最後の抵抗を続け、誇り高く死んでいったぺキニャの歌が二つあるが、現代フランス語で歌われた方の最後の二節をご紹介しよう。

 暴君の気高い犠牲者、ぺティニャ(ぺキニャの俗称)、勇気ある農民
 ここで君に敬意を表そう
 君の名が時代を超えて受け継がれるように!

 恐怖の時代は過ぎた、もう暴君なんか怖くない
 常に勇気を持って歩こう
 波乱をもたらすのは僕らなのだから!




  〈参考文献〉
Courgenay-Courtemautruy村公式サイト  http://www.courgenay.ch/
ジュラ州情報サイト・ジュラネットよりCourgenay村のページ
http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/Courgen.htm
http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/autreAjoie/Courgenay/courgenay.html


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Last Update: Jul.23,2005