「アジョワ暴動」と呼ばれるこの事件を語る時、多くの人々は「独裁者バーゼル大公司教による圧政に耐えかねた勇気ある農民の反乱」と捉えがちだが、様々な資料を見聞すると、ありきたりの「革命賛美」という単純な図式だけでは書き表せないような気がしてきた。
ピエール・ぺキニャは1669年4月、コージョネ村に生まれ、1700年頃にマリー・マグダレンと婚姻し、子をもうけた。静かに余生を送っても何ら不自然ではない年齢に達していた彼は、その強靭な肉体と精神力ゆえ、反乱の指導者として祭り上げられることになった。10年に及ぶ抵抗の末、壮絶な死を遂げた彼は、地方の英雄として今日に至るまで名を残すことになる。
アジョワ地方は「バーゼル司教公国」の一部で、10世紀末よりバーゼル大公司教が政治的・宗教的に直接支配下においていた。
以前より、様々な条例、及び大公・農民間の協定において森林伐採・狩猟・漁獲・鉄や塩の売買については統制されていたが、役人達は法を必ずしも正しく適用していなかった。そして更なる締め付けとも言える1726年条例によっても不正徴収は続けられ、農民達の怒りは募る一方だった。
農民達の不満を知った大公は彼らの意向を知ろうと1730年1月11日に国民議会(聖職者・貴族・平民からなる)を召集し、自ら演説を行ったが、反乱の火種を消すまでには至らなかった。
話はそれるが、このアンリエット夫人は慈悲深き賢貴婦人として庶民に慕われていた。伝説によると天は彼女の死を惜しみ、「Tante Arie(アリーおばさん)」として生まれ変わらせた。アリーおばさんはフランスのフランシュ・コンテ地方からスイスのアジョワ地方にかけて広く出没し、様々な姿に変装して現れ、クリスマスに子供達におこずかいを配ったり、サンタクロースの如く煙突から登場したという伝承がある。
アジョワの各村々は、反乱の旗の下に次第に一致団結し始めた。
Last Update: Jun.23,2005
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