ポラントリュイの一つ手前の小さな駅、コージョネ。この駅に降り立つとすぐに、可愛らしい建物が目に入る。スイスのどこの村にでもあるような個人経営の小さな駅前ホテル。
|
▲コージョネ村駅前ホテル・レストラン「Petite Gilberte」
(2005年8月撮影)
|
|
ところが、ホテル前に観光バスが一台、二台と横付けされていることも珍しくない。観光客の会話に耳を澄ますとスイス・ドイツ語(注・スイス・ドイツ語は標準ドイツ語と似て非なる言語である)が聴こえてくることが多いだろう。それもそのはず、ここはスイス、特にドイツ語圏で最も有名で最も人気のあるジュラ女性がかつていた場所なのだから。
物語は1906年までさかのぼる。この年、ギュスターヴ・モンタヴォンという時計職人が駅前ホテルを購入し、家族と共に移り住み経営に乗り出した。三年経つと、ホテルの拡張工事が始められ、村の楽隊や様々なグループが使用するホールが作られた。数年後、このホールは村人ではなく、スイスの他言語圏から集結した軍人達で賑わうことになる。
1914年6月28日。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ=フェルディナント夫妻はサラエボを訪問中、セルビア人過激派の青年に暗殺された。オーストリアは報復のため、ただちにセルビア併合を宣言。ドイツはそのオーストリアを支持。一方、セルビアの独立を支持するロシア、更にイギリス・フランス・イタリアも加わり、ヨーロッパは戦争に突入した。やがて中東、中国大陸にも飛び火し、植民地と世界の覇権を競い合う帝国主義戦争としての性格を帯びた第一次世界大戦へと拡大していった。
戦争が始まるや否や、スイスは迅速に対処した。1914年7月31日、軍は前哨に配置された。8月3日、連邦議会は総動員令を発した。25万人の士官、下士官、兵士、更に20万人の補充、そして4万5千頭の馬が軍役についた。
総動員令発布後、スイス軍はフランス・ドイツ戦線に近いジュラに配備され、塹壕が掘りめぐらされた。これによって、村々のホテル・レストランは、軍隊の駐留場所ともなった。コージョネ村の位置するアジョワ地方には、軍の四分の三、主にスイス・ドイツ語圏出身の隊が駐屯した。
|
▲ジルベート・モンタヴォン
「真ん中分けで結い上げた黒髪が えくぼを浮かべた丸顔を包み、
華やかな笑顔が 印象的な女性」と姪のエリアンさんは語る
|
|
ジルベート・モンタヴォンはギュスターヴとルシーン夫婦の三女としてホテルの一階で生を受けた。
第一次世界大戦勃発当時、ジルベートは18歳。レストランでの家族の役割はそれぞれ定められていた。でっぷりと貫禄のある母ルシーンは勘定台の後ろに常に座り、家族を含む使用人が働く様子や客をじっと見て采配を振るっていた。ジルベートは姉二人と共に給仕。弟二人は音楽の才能が有り、ヴァイオリンやピアノ、アコーディオンを演奏し、夕べを活気付けた。(注・この弟の一人、ポール・モンタヴォンは後にジュラを代表する作曲家、音楽家として活躍した。アジョワ地方の永遠の名曲として今でも宴会やコンサートの度に繰り返し演奏される楽しいマーチ曲「Salut à l'Ajoie」の作曲者である)
三姉妹の中でも特に笑顔が明るく美しい彼女は、休息と娯楽を求めてやってくる兵士達の人気者となった。彼女はただ小柄で可愛いだけでなく、機知と社交性に富み、トランプの「ブリッジ」の名手でもあった。また、義務教育を終えてから裁縫の勉強のためにドイツ語圏に住んだことがあり、このホテル・レストランで唯一スイス・ドイツ語を解する女性だった。
語学力もさることながら、彼女の突出した才能は、驚異の記憶力だった。彼女は接した将校・兵士すべての名前、容姿の特徴や彼らとの会話の詳細(例えば出身地や家族構成など)を覚えていた。その上、故郷を遠く離れ家族を心配する兵士達の話を親身になって聞いてやり、決して内容を忘れなかった。一旦兵役を終えて故郷に帰り、再び赴任してきた時にチャーミングなジルベートの記憶にとどめられていたことを非常に喜んだことは言うまでもない。
ジルベートの噂は士官から士官、兵士から兵士へ、そしてスイス全土へと伝わっていった。彼女のニュースは、中央スイス在住の、あるシンガーソングライターの興味を引いた。このことが、結果的にジルベートを国民的アイドルに導いていく・・・。
Last Update: Aug.23,2005
|