「セシル・エ・クロード」(セシルとクロード)という、これと言ってインパクトの無いタイトルの小説は、ある文学賞で選外になりました。
(まだ私は力不足だ)この結果は当然と思いながらも、一方で、(こんな良い小説をどうして外すのだ???)と根拠の無い自信はたっぷりありました。(笑)
家族、特にセシルの娘である義母は、会う度に聞いてきました。「あの小説はどうなったの? 本にならないの?」彼女自身は読書をする人ではありませんが、
自分の父母の生涯を描いた小説の行方が気になっていたのでしょう。自他共に募った思いが飽和状態に達した時、私は遂に決心しました。
「何としても、この作品を埋もれさせたくない!」
「ラ・ヴィ・アン・ローズ」校正中、私は何度も不思議な体験をしました。またそれはどこかで書く機会があると思います。 そのせいか、ふと、「亡くなった人々への鎮魂歌を、この町を舞台にして創造したい」というインスピレーションが湧き、 二作目「レクイエム」の執筆に取り掛かりました。こちらも賞は逃したものの、2004年2月11日、夫と私の11回目の結婚記念日に出版されました。
一作目は三刷、二作目も二刷と、めでたく増刷になりました。スイスでも私独自の宣伝活動が功を奏し、数多くの日本人に愛読していただいています。
2003年の秋から、大阪市の通訳業務派遣会社、「国際通訳合資会社」のホームページ、そしてここ六稜同窓会WEB上に於いてもエッセイを連載させていただいています。
スイスの新聞各社にも、「スイスを舞台にした小説を書く日本女性」として記事を掲載していただきました。また、2004年の5月には、
地方文学団体主催の「日本文学の夕べ」にてスピーチをするという、この上なく光栄な機会を賜りました。
とことんまで落ち込んだ時、ある結果に辿り着きました。「人生の全ての出来事は一つの線で結ばれているのだ」と。 英語好きが高じて英国留学したことも、スイス男性と恋愛結婚してスイスを終の住み処と決めたことも、家庭の内外で悩み苦しんだことも、 全ては現在の自分に繋がっていたのだと。そしてまだまだ前に道が伸び、次の瞬間、瞬間と結ばれているのだと。そう悟った時、何も恐いものはなくなりました。 もし、私の生命が明日ふいに絶たれたとしても、私はこう思いながら永遠の眠りにつくでしょう。 「この世に生を受けたことに感謝したい。私は幸せだった」 自分が自分らしくいられるよう、そして一人でも多くの人と分かち合えるよう、生涯を執筆活動に捧げます。 ここまで読んでいただいた皆様、どうもありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 |